アインシュタインは、同じくナチスを逃れ、後に独力で高名な科学者になった2人のドイツ生まれの若き物理学者、ベルクマン(写真左)とバルクマン(写真右)の力を借リて、統一理論を模索した。1940年撮影。
1958年4月末日にアルバート・アインシュタイン本人による書籍(訳:矢野健太郎が、岩波書店より「相対論の意味」として出版された。
私が、この書物を手にしたのは、1972年10月30日、第14刷発行版である。私は専門課程が理学部化学科のため、物理・数学と言う学問とは掛け離れて はいたのですが、専門の化学は早めに独学で勉強していたせいで、物質の根源を追求出来る物理に魅せられて、「相対論の意味」を書店で買いました。この事が きっかけとなり、物理と数学の勉強を始めました。
ここで、「相対論の意味」の注釈と本文の最初の部分を抜粋します。
この書物(The Meaning of Relativity)は,アルバート・アインシュタインが1921年の5 月にプリンストン大学で行なった講義をまとめて、1922年にプリンストン大学出版部からその初版が発行された。
アインシュタインがその特殊相対性理論を発表したのは1905年、その一般相対性理論を発表したのは1915年であったが、その後、これらの理論がつぎつ ぎと実験によって確認され、アインシュタインの名声がしだいに上っていったのはよく知られている。アインシュタインは1920年から22年にかけてほとん ど全世界を旅行して歩いているが、1921年アメリカに渡ってプリンストン大学で行なった講演が本書の内容をなしているわけである。(以上、訳者のまえが き、より))
相対論以前の物理学における空間と時間(本文より))
相対性理論は、空間と時間の理論に密接に結びついて いる。したがって、そうすることは実は、議論の余地の多い問題を導入することになるのを十分承知してはいるが、私はまず、われわれの空間と時間の概念の起 源の、簡単な研究から始めようと思う。あらゆる科学の目的は、よしそれが自然科学であれ、はたまた心理学であれ、われわれの経験を系統立て、それらを一つ の論理的な体系のなかにもちきたすことにある。空間と時間に関するわれわれの在来の概念は、われわれの経験の性格とどんな関係にあるであろうか。
われわれには、ある一個人の経験は、一系の事象として配列されていると思われる。 この事象の系列においては、われわれの思い出す個々の事象は、“より前”および“より後”という規準に従って配列されていると思われる。そしてこれらは、 それ以上分析され得ない。したがって、各個人にとっては、自分の時間、すなわち主観的な時間が存在する。これは、それ自身として、測定可能ではない。事実 私は、より以前の事象に対応させる数よりも、より以後の事象に対応させる数の方が大きくなるように、各事象にそれぞれ数を結びつけることができるが、その 結びつけ方は全く任意でありうる。この数の結びつけを私は、時計の与える事象の順序と、与えられた一系の事象の順序とを比較して、時計を用いて定義するこ とができる。ただしここに時計というのは、数えうる一系の事象を与え、しかも後にのべるようなその他の性質をもったあるものと考える。
言葉の助けをかりることによって、違った個人が、ある程度まで彼らの経験を比較することができる。こうして、違った個人のある種の感覚は互に対応するが、 その他の感覚に対しては、このような対応がえられないことが示される。われわれは違った個人に共通な感覚、したがって多少とも超個人的な感覚を現実のもの と見なすのが普通である。自然科学、そしてとくに、そのうちで最も基本的な物理学は、このような感覚を取り扱う、物理学的物体、とくに剛体の概念は、この ような感覚の相当確固たる集成である。時計もまた同じ意味で一つの物体または一つの体系であるが、それは.それの数える事象の列が、すべて同じと見なしう るような要素からできているという付加的な性質を持っている。
われわれの概念、および概念の体系が妥当であるという唯一の理由は、それ らがわれわれの経験の集成を表現するのに役立つという点にある。これ以上には、概念や概念の集成は何等の妥当性を持ちえない。したがって哲学者たちは、あ る種の基本的な概念を、そこではそれを制御し得る経験領域から、“先験的必然”という捉え難い高所へ運ぶことによって、科学的思考の進歩に対してーつの有 害な影響を与えたと私は信じる。なぜなら、よし概念の世界は、経験から論理的方法によっては導き得られず、ただ、ある意味で、人間精神--それなくして科 学はありえない--の一つの創造物に過ぎないと思われるとしても、それにもかかわらず、この概念の世界は、ちょうど着物の形が人間の体の形をしているのと 同様、われわれの経験の性質と密接な関係にある。このことは、とくにわれわれの空間と時間の概念に対してもほんとうであって、物理学者たちは.これらを修 理し、ふたたび使用可能な状態におくために、これらを“先験的必然”の神殿からひきずり下すことを、事実によって余議なくされてきたのである。
次に、1950年、SCIENTIFIC AMERICANに寄せた一文の中で、アインシュタインは待ち望まれていた統一理論のあらましを述べた。
「われわれが既存の理論で“説明”できない新たな事実に遭遇したとき、真っ先に必要となるのは新しい理論だ。しかし、新しい理論を打ち立てる動機という意 味で言えば、これは取るに足らぬものにすぎない。これよリもはるかに重要であり、魅惑的で名状しがたい別の動機がある。それは、既存のすべての理論の前提 を統一し、単純化したいという欲求である」
「理論において基礎概念と基本的仮説が“経験に近い”ということは、大きな強みであり、そうした理論ほど信頼されやすい。こうした理論は経験を通じて反証 するのにたいして時間も労力もかからないので、迷路に迷い込んでしまう危険も少ない。しかし、論理的明快さと一貫性を持つ基礎理論を追究するためには、知 識が深くなるにつれて、そうした強みをあきらめねばならない」
「理論的なアイデアというものは、経験と無縁なものでもなければ、純然たる論理的手順によって経験から導き出されるものでもない。それは、創造的行為によって生み出される」
「―般相対論の有用性を重力のみに限定し、重力以外の物理学については別個に処理できるという仮定は適切とは言い難い。現在、重力作用についての理解が他 に比べて遅れているが、それは一般相対論を無視して基本原理の理論的研究を行う決定的な理由にはならない。つまり、重力を抜きにして物理学を論じること自 体が間違っていると思う」
アインシュタインの「統一理論の夢」にかける思いが、少しでも伝わったでしょうか?
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