もし、自然選択が環境に最も適応した個体の生存を優位とするなら、なぜある個体が身を賭して、他の個体を助けるのか? Charles Darwin自身、なぜ働きアリは、自分の子孫を残すことに繋がらないのに、コロニーのために働くのかということに気づいた。社会的行動をする昆虫は「特に難しい、想像を超えているようで、私の説に壊滅的だ」と、 On the Origin of Speciesに記した。
それなのに、自然界には、助けあいと自己犠牲が普遍的にみられる。共に働く人間は、何十億の人間のニーズに合うようにこの惑星を変化させてきた。
種の間には、数えきれない協調の例がある: クリーナー・フィシュ(cleaner fish)は、大きな魚から寄生虫を取り除き
≪ダイビングの醍醐味の一つは、海洋生物の多彩な「協調」関係を観察できること≫、また、窒素を固定する細菌は、植物と協調する。
ある場合では、協調は重要な進化的変遷を刺激し、完全なシステムの構築をするための助けとなってきた。働きアリは自らの子孫をもうけず、「スーパー生物(super-organism)」とみなされるコロニー内で女王アリの子孫を世話する。
うまく特化し共生した細胞は、多細胞生物・微生物へと進化した。ノースキャロライナ州立大学の生物学者 Huntは「各レベルで、以前は独立した生殖単位と淘汰の標的は、単一の生殖単位と淘汰の標的になる、」と述べる。
ハーバード大学の Nowakは、普遍的にみられる協調を突然変異と自然選択に並んで、第三の柱と位置づける。「自然選択と突然変異は、同レベルの生物でいかに変化するかを描写する」、「しかし、自然選択と変異だけでは、30億年前の細菌世界から、今あるヒトを説明できない。」と説明する。協調は、統合を導き、そして統合が複雑性を導いたのが、今ある生物界である。
協調という難題は、自己‐関心(self-interest)が、いかに自然淘汰が作動する仕組みに打ち勝つかを説明する。Darwinは、メンバーが協調的な家族を選択したと示唆した、
そして現在の研究者も親戚関係が協調を説明するのに役に立つことに同意する。しかし、チータは犠牲なしに利益を得るように進化したようだ、なぜならチータは他の者を助けることにエネルギーを費やす生物の枠外にいる、だから、協調を説明するあらゆる仮説に脅威をおよぼす。
この謎(パズル)は、生物学者、数学者、経済学者にまで、いかに協調が生まれ拡がりえたのか啓示を与えてきた。研究者たちは膨大な時間をかけ、ヒトから微生物まで社会的行動をとる生物を観察し、単細胞生物さえ複雑な意味での助け合い(working together)を発見した。ゲノムが歳をとるにつれ、研究者たちは、多彩な系における協調の遺伝的ボルトとナットに注目し始めた。
全てがファミリー 協調がいかに進化したのかを説明するため、Darwinはお互いに助け合うことは、ファミリーのメンバーに利益をもたらすと示唆した。1960年代、英国の生物学者 Hamiltonは、この考えを温かく受け入れた。
彼は、協調という近代的な考えを血縁者の子孫は個々の適合に含められると提唱し、定型化した。血縁者の子孫は、相当の遺伝子を共有する、だから共有する遺伝子の普及を促進する。血縁者が子孫を増やせば増やすほど、遺伝子がより普及する。だから、全体が複製する生産高が、個々が複製する生産高を十分に上回るなら、働きアリは進化する。
Hamiltonは、「包括した適合性(inclusive fitness)」を予想する公式 ― 子孫とある範囲の親族 ― を編み出し、そして様々な環境下で協調が進化するか否か決定するガイドとして用いた。彼は、包括した適合性で、高度に協調的昆虫の進化を説明でき、故にダーウィンの問題を解くと結論した。
この概念は、個々の間系性の程度の差に応じて個体はふるまうことを意味する。他の英国人、Haldaneが、30年前に報告したように、「自分の一人の兄弟を助けるために自らの命を捧げるだろうか? いや、しかし、二人の兄弟や八人の従兄妹のためになら、そうするだろう。」
血族関係は協調的行動を駆動するという概念は、有力な説として証明されつつある、しかし、全ての協調を説明できない。例えば、人類はしばしば非血縁者と協力する。チューリッヒ大学の経済学者 Fehrは、「他の種では、遺伝的に繋がりのない集団で確立されていく大規模な協調は、継承されないようだ、」と、2004年 11月号の Nature誌に報告した。
わが人類の協調の本質を説明するために、1970年代、Triversは、相互の利他主義という概念をうち立てた、「君が僕の背中を掻き、僕が君の背中を掻こう、」と記した。研究者たちは、彼の何世代にもわたる現実世界で何が起こるかを推定するためのコンピューター・シミュレーションをもいた研究に啓示を受けた。プログラマーたちは、2人のプレイヤーが、協調を選べるかというゲームを開発し、お互いにいかに協調するかを決定し、もし「仕返しをする(tit for tat)、」なら、協調は進化することを発見した。
しかし、この進歩は、援助者あるいは被援助者が再遭遇する大きな協調的集団がいかに進化し得るかを説明しえない。
研究者らはまた、不正をする者の将来を考慮しなくてはならない:多くの者が、食料を探すため、家を建てるため、あるいは集団を守るため協調するとき、少数の者が貢献できず、たかり屋になると他の者たちは追従し、協調を不安定にする。
1998年に Nowarkと Sigmondは、少なくとも人類において、これら諸問題について提言した。彼らは、人類は何をすべきかを他の者が自分たちを助けたということばかりでなく、他の者が他の者を助けたかを基に決定することを示唆する数学モデルを開発した。「評判も重要であった、」と Nowarkは説明する。
他のゲーム実験は、これを支持した。2004年、Boydはシミュレーションを用い、もし助けなかった者あるいは怠け者を遠ざけ、そして、それらの者の援助を拒否した場合、この戦略は特によく機能することを示した。
しかし Fehrは、この戦略では人類の非常に高度な協調性を完全には説明できないと考えた。彼の労働市場研究では、経済説が予想するより人々は協調性が高いことに気づいた: 例えば、フェアーな賃金を与えられている労働者は、自己関心を基にした説より、はるかに自発的によく働く。彼はまた、人々は例え、人々の評判に影響を与えるほど希薄な関係でも、見知らぬ者とも協調する傾向があるのに気づいた。どのような動機、そして社会的力が、この行動を駆動し維持するのかに思いをめぐらした。
多くのゲーム研究を検討して、Fehrは罰も協調を成功させる上で重要な役割を演じていると示唆した。2002年に彼は、参加者は与えられたお金を保持するか、一部あるいは全てをプロジェクトに寄付するかを決定した研究を報告した。参加者には、非協力者に罰をあたえる選択肢があった。罰は流行し、約 75%の「協調者」は、たかり屋に罰をあたえた。
ゲームに罰が含まれないと、平均的な協調性は低下した。懲罰は流行り、「協調者」への貢献者の75%が、たかり屋に罰を科した。罰がゲームに含まれない場合、貢献者の割合は低下した。他の研究は、長期にわたる、罰そのものではなく罰への恐れは、いかさまを阻止することを指摘した。だから、罰へのコストは減り、利益は保たれる。
Nowakは、利他的
≪自己的=エゴイズムの反意語≫傾向は、ある程度本能で、人類の歴史において進化し、小さな血縁間では当たり前にみられ、そして評判は絶えず問題だった、と考える。しかし彼は、罰は個人間の争いをエスカレートするような、長い目で見れば負の効果をもつので、罰の重要性を軽視する。
個々が何度も遭遇するとき、永続する協調において「報酬は、はるかに上手く働く」と彼は主張する。1月号の Nature誌で、Nowakらは、ゲームを基にした研究から、罰はまれにしか機能せず、非協力者の助けを拒絶する方がはるかに効果的だと結論した。
そして、192人が4台のコンピュータを用いたシミュレーションでは、報酬は集団に多くの対価をもたらした。罰は、協調を維持するには有効だが、実験では罰は低い決算(a lower payoff)をもたらし、集団に貢献する人数に影響を与えなかった。Fehrの相対する実験結果を前に、罰の役割についてはまだ議論の余地がある。(続く)
貼り付け終わり。
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