貼り付け開始、
松岡正剛:講談社 現代新書
なぜ「 日本 」は「 ヤマト 」と呼ばれたのか
…「 国の名前 」をめぐる意外な歴史 ------------------------------------------------
https://gendai.media/articles/-/111667 2023.07.09
* 本記事は
松岡正剛『 日本文化の核心 「 ジャパン・スタイル 」を読み解く 』
( 講談社現代新書 )の内容を抜粋・再編集したものです。
< 抜粋 >
■ 国号「 日本 」の成立
ニホンかニッポンか、どう発音するかはべつとして、
※ nueq lab
ニッポン人とにほん人 ------------------------------------
https://nueq.exblog.jp/21807320/ ・ アンポンタンのニッポン人
「 日本 」という国号はどこで決まったのかというと、
七世紀後半から八世紀あたりです。
それまでは「 倭 」です。
自称していたわけではなく、
中国の歴史書の『 後漢書 』倭伝、『 魏志 』倭人伝、『 隋書 』倭国伝などが、
日本のことを「 倭 」と、日本人を「 倭人 」と示したので、【 ※1 】
それに従っていたのです。
「 倭の五王 」のように中国の皇帝から将軍名をもらっていた時期もありました。
当時の倭国は、朝鮮半島の百済や半島南端の加羅( 加耶 )諸国と
軍事的にも交易的にもアライアンスを結んでいて、
独立国家というほどではなかったのだろうと思います。【 ※2 】
それが百済に軍事的支援を頼まれ、
倭国は六六三年の白村江の海戦に臨むのですが、
そこで新羅と唐の連合軍に完敗してしまった。
これでいよいよ自立の道を選ぶことになったのです。
ここから日本が一国として組み立っていくことになります。
斉明天皇から天智天皇にバトンタッチがされた時期でした。
このときに「 日本 」という国名がほぼ決まっていったと思われます。
『 三国史記 』新羅本紀には「 六七〇年に倭国が国号を日本に改めた 」
と記されていた。【 ※3 】
ということは、天智天皇の治世が新たな世のスタートであることを示すために、
( とくに唐に対して )「 天皇 」表記と「 日本 」表記とを
ほぼ同時に決めたのだろうと思います。【 ※3 】
律令としてこうした表記が制度化されたのは七〇一年の大宝律令でのことでした。
だから制度史的には「 日本 」という国号は七〇一年に成立したのです。【 ※4 】
■ なぜ日本がヤマトなのか?
こうして日本が「 日本 」国を名のるのは八世紀前後だったということなのですが、
その後の天武天皇以降の時代に『 古事記 』や『 日本書紀 』を編纂していくなかで、
そこに「 日本 」という表記が貫かれていたかというと、そうでもありません。
記紀神話には日本のことを「 葦原中国 」とか「 豊葦原 」とかと記しています。
これは国号というより、「 水辺に葦が生い繁っている豊かなわれらが国 」
という意味です。【 ※5 】
「 秋津島 」とか「 大日本豊秋津島 」というふうに表記されることもある。
これは本州のことです。
本州・四国・九州・隠岐・壱岐・対馬・淡路島・佐渡をまとめて
「 大八島 」「 大八州 」(おおやしま)と言っていました。
八つの島から成っているという意味です。
記紀の「 国生み 」の場面で生み出された島々です。
そのほか「 瑞穂国 」という言い方もしている。【 ※6 】
こちらは稲穂が稔っている様子から付けたもので「 お米の国 」とみなしたからです。
五円玉がその様子をデザインしています。
平成一四年、第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行が合併したとき、
この瑞穂を行名に選んで「 みずほ銀行 」が誕生した。
倭にはじまって瑞穂国にいたるまで、そうしたいくつかの呼称を示しつつ、
だんだん「 日本 」という表現が確定していくわけです。
けれども、その日本はニホンやニッポンとは読まなかった。
どう言っていたのか。
「 やまと 」と称んでいたのです。
日本と綴ってヤマトと訓読みしていたのです。
私たちはいまでもいろいろな意味で「 大和 」という言葉をつかいます。
大和朝廷、大和政権、大和ごころ、大和魂と言いますし、
奈良はずっと「 大和の国うるはし 」です。【 ※7 】
そのほか倭媛、大和絵、大和三山、大和人形、大和撫子、大和川、大和郡山、
大和煮、戦艦大和、大和文華館、クロネコヤマト、宇宙戦艦ヤマト ……
などとつかってきた。
大和はいろいろなところに顔を出しています。
大和をダイワと読むと大和ハウスや大和書房や大和自動車交通や、
大和證券やかつての大和銀行など、もっとたくさんの大和が目白押しになる。
ある時期から、この大和に「 日本 」という漢字をあてました。【 ※8 】
日本と綴ってヤマトと読ませた。
なぜ日本が大和なのか。
もともと日本をヤマトと訓んでいたのでしょうか。
すでに述べたように、
ヤマトには古くは「 倭 」という漢字があてられていたはずです。
「 倭 」という文字は「 委ね従う 」とか「 柔順なさま 」という意味をもつ漢字で、
中国人が古代日本人の様子や姿恰好や行動からあてがった 【 ※9 】
暫定的な当て字ですが、渋々というより、
まだ漢字の意味を十全に理解していなかったわが祖先たちは、
自国を「 倭 」と称します。
のちに学識豊かな公家の一条兼良がこの説を採っています。
一説には、日本人が自分たちのことを
「 わ 」(吾・我)と言っていたからだともいいます。【 ※10 】
この説は平安時代の『 弘仁私記 』に書いてある。
また江戸の儒学者の木下順庵は「 小柄な人々 」( 矮人 )だったので、
倭人になったという説を書いています。
ところが、この「 倭 」を日本側(朝廷)は「 ヤマト 」と読むことにした。
八世紀の天平年間のころには「 和 」の文字が定着し、
そのうち日本国のことを「 大和 」「 日本 」「 大倭 」などと綴るようになったのです。
どうしてヤマトという呼称が広まったかといえば、
初期の王権の本拠が奈良盆地の大和の地にあったからで、【 ※11 】
やがてそれが畿内一帯に広がり、
さらには日本国の呼称を代行するようになったからだと思われます。
ヤマトを地理的に一番狭くとれば、大和は三輪山周辺のことをさします。
語源的にいえば、もともとヤマトは「 山の門 」です。
奈良盆地から大阪側を見ると連綿と続く
笠置山・二上山・葛城山・金剛山と続く山々を眺めていた大和人たちが、
自分たちの土地を「 山の門 」と言いあらわしたのでしょう。【 ※12 】
ここに大和政権が誕生し、飛鳥・藤原・奈良時代がくりひろげられた。
それで国の名をヤマトにした。
そういう経緯だったのだと思います。
奈良時代の次は平安時代ですが、そこは今度は山城国と称ばれました。
ヤマシロとは「 山の背 」( やまのせ・やまのしろ )のことです。
平安京からすると、あの奈良の山々が背になったのです。【 ※13 】
山城国は山背国であったわけです。
こうして奈良の朝廷が大和朝廷になり、
その大和朝廷が律する国が「 日本 」になったわけでした。
はい、コメント、行ッきま~~~~す!
↑ (^o^)/
↑
これ、ゲーム「 ぷよぷよ 」の決まり文句♪
【 ※1 】自称していたわけではなく、中国が日本のことを「 倭 」と称した。
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日本のことだけではない。
朝鮮半島のほとんどの民族のことも、古くは「 倭 」と称していた。
また、雲南やラオス、ビルマ、ベトナム方面の民族も
字面は異なるが「 ワ 」と称していた。
「 倭 」は、卑字であり、「 ワ 」は卑語である。
【 ※2 】倭は加羅ともアライアンスを組み、独立国家というほどではなかった。
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まず、この時代「 国家 」と云う概念はない。
時は支那三国時代( 本当は四国時代 )。
東アジアでは合従連衡の組み換えが絶えず起きていた。
ただ、弁韓( 駕洛 )と倭国の同盟関係は強力だった。
なぜなら同じ民族だから。
百済・新羅とはその都度、ご都合主義でアライアンスを組み替えたり
裏切ったり。。。。。
【 ※3 】
『 三国史記 』新羅本紀「 六七〇年に倭国が国号を日本に改めた 」
天智天皇の治世が新たな世のスタートであることを示すために、
( とくに唐に対して )「 天皇 」表記と「 日本 」表記を決めた。
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まず、日本の記録ではなく、新羅の記録という点に、注目!
663年、白村江の戦い( 古代のミッドウェー海戦 )で
総力をかけた倭連合水軍が全滅し、百済殲滅後、
唐・新羅連合軍は日本に侵攻。
その前哨戦として、大倭の腰抜け( 売国奴 )を懐柔して「 壬申の乱 」の
内戦を起こさせる。
この腰抜けの代表者が「 天武天皇 」。
要するに、今の糞中屁射蔵や悪正義、ハシシタと同じ存在。
唐新羅連合軍は、濡れ手に粟で九州から奈良に進駐し、
飛鳥「 浄 」御原宮に置かれたGHQ本部で「 飛鳥浄御原の令 」を発する。
要するに、第一生命ビルで完成した今の「 日本国憲法 」に同じ。
この後、唐と新羅の挟み撃ちで、高句麗を滅ぼし、
朝鮮半島を統一した新羅は、唐と争うようになる。
日本占領地に於いても唐を迫害するようになり、
GHQは新羅の独占となる。
唐と新羅の和平が結ばれ、新羅は日本列島を独占支配するため、
日本は古来から連綿と続く王国であることを証明するために、
「 日本から 」書簡を唐に送りつける。
そこに「 日本 」の国号と、「 天皇 」の称号が初めて登場する。
以前にも記したように「 天皇 」の称号は、まさに当時の
則天武后が、蘭州~モンゴルの「 鬼道 」に基づき、
ダンナの高宗に贈呈した称号。
< newsNueq-3496:「 神道 」は日本のオリジナルではなかった!
:日本での初出とルーツと伯家神道に至る道 > 2021/11/11
この称号を新羅は当の武則天に対して、当てつけのように使ったのだ。
そして、「 日本 」の国号はどこから来たか?
新羅の国号は、「 シラヒース 」から来ている。
この語は、ボルネオ語。
「 日出ずる処 」の意。
元々は、ウンムンナール文明にあった「 日出ずる処 」信仰。
このウンムンナール( ずっと後のフェネキア )がボルネオを経て
国東半島に上陸し「 東表国 」と云う、日本初の「 国 」を
樹立した( 3500年前 )。
「 東表国 」とは、まさに「 東の表 = 日出ずる処 」。
東表国の息子国が、弁韓、その息子国=孫 が新羅である。
新羅GHQ本部は、東の端にある列島を「 日出ずる処 = 日の本 」とした。
そして、「 日本 」とそれを統治する「 天皇 」は、
決して新羅のの占領地ではなく、古来より続く独立国であって、
新羅が占領・独占したのではない。
と武則天に弁明したのである。
そして、その「 証拠 」として、『 古事記 』『 日本書紀 』をデッチ上げた。
< newsNueq-857:節分と「イワシの頭も信心から」のそもそも学 > 2020/02/04
※ ここにデッチ上げ作業の過程を記してある。
これは『 日本書紀 』そのものに記された記述である。
垢デ己済ムのドアホドモは、この一番肝心な箇所を見落としている。
ってか、タブーか?
(^o^)b
『 日本書紀 』の著者は、よくぞこの一文を紛れ込ませた!
あっぱれ!!!
『 古事記 』『 日本書紀 』を詳細に読めば、或いは行間を読めば、
こうした「 春秋の法 」が随所にみられる。
占領民( 奴隷 )のせめてもの抵抗が随所にみられるのである。
< newsNueq-077:日本人の98%は穢多である:四民平等と藤橘源平 > 2017/05/04
武則天にとっては日本列島など、どうでもいい。
頭を悩ましていたのは、王族の反乱と飢饉、そして北狄・西戎侵略の問題。
新羅どころではなかったのである。
【 ※4 】「 日本 」表記が制度化されたのは七〇一年の大宝律令。
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なんと、ドアホ丸出しのことを!
まず、「 制度化 」などされてない。
次に、「 大宝律令 」の実在性が最近疑われるようになっている。
実在云々はともかくも、これが告知されてないのはほぼ事実。
実質的に「 大宝律令 」など、だ~~~~れも知らかなかった
ことが明らかにされた。
つまり、なかったことに等しい。
【 ※5 】
記紀神話には日本のことを「 葦原中国 」とか「 豊葦原 」と記しています。
「 水辺に葦が生い繁っている豊かなわれらが国 」という意味です。
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『 古事記 』『 日本書紀 』には、天照大神が、
「「 葦原中国 」は我がもの。ここに侵攻し略奪せよ! 」
と書かれている。
で、一般に「 豊葦原 」とは、豊葦原は、豊稲水田になると解釈されている。
まるで、世良田二郎三郎( 家康 )の江戸入城のように。
が、これはまるで見当違い。
天照大神が欲望したのは、稲ではない。
鉄なのである。
「 鈴なり 」という言葉がある。
葦の根に「 鈴 」ができる。
第二酸化鉄を凝縮した鈴状の塊が出来る。
製鉄の原料は、三段階を経るが、その最初がこの「 鈴 」なのである。
だから、伊勢神宮は、「 鈴ヶ森 」に出来た。
どこまでも、「 軍事 」なのである。
【 ※6 】そのほか「 瑞穂国 」という言い方もしている。
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【 ※5 】にコメントしたように、
「 豊葦原 」は、稲ではなく鉄である。
つまり「 瑞穂国 」とは、その副産物として出来た言葉。
時代的には、仁徳天皇の堤防と灌漑が整備されて以降の表現と思われる。
「 豊葦原中国 」の「 中 」とは何か?
「 豊葦原中国 」は「 とよあしはらの中ツ国 」と読まれる。
だが、最後の2語は、「 中国 」!
これは、ある意味で「 中国 」とは、日本を指している表現でもある。
種明かしをすると、古代支那に「 中山 」という国があった。
戦国時代の国。
中原のど真ん中にあり支那でも最も格式の高い国だった。
睦仁親王( 明治天皇 )の生みの親は、中山慶子であり、
中山家は、天誅組を組織して明治維新の魁となった。
そして、孫文は、日比谷の中山邸を訪問して「 孫中山 」を名乗るようになる。
これが、現在の中華民国 ~ 中華人民共和国の根底にある。
因みに「 人民 」「 共和国 」は日本語である。
支那畜は、うやうやしく、日本語を国名に使っているのである♪
【 ※7 】奈良は「 大和の国うるはし 」。
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このヤマトタケルが詠ったとされる
倭(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば
たたなづく 青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる
倭し麗(うるは)し
一般に奈良の自然を描いた唄とされている。
が、倭健命は、聖徳太子、神功皇后、天武天皇と並んで、架空の人物。
倭健命の九州成敗のストーリーには、
神武天皇が兄宇迦斯に宴席を設けて騙し討にしたことが
そのままコピペされている。
( 逆か?
コイツらは常に騙し討の歴史。
それは『 古事記 』『 日本書紀 』を読めば、
イヤと云うほど登場し、しかも、自慢してる連中である。
にほん人は、これを「 卑怯者 」と呼ぶ。)
さて、「 大和し麗し 」だが、これは奈良の山を詠ったものではない。
北九州の山を詠ったものだ。
具体的な山の名前は忘れた、
奈良の「 文化 」のほとんどは、九州の文化を盗んで塗り替えたもの。
「 小倉百人一首 」も実は九州で詠まれたものである。
京都にも九州にも「 おぐら 」がある。
九州には2ヶ所あるが、それは小倉( こくら )ではない。
【 ※8 】ある時期から、この大和に「 日本 」という漢字をあてた。
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「 ある時期から 」ではない。
『 日本書紀 』からである。
しかし、当然、当時の一般日本人が漢語を読めるはずもない。
つまりこれは『 日本書紀 』の中だけの話でしか(な)い。
つまり、ん なこと、だ~~~れも知らないのである。
【 ※9 】
「 倭 」という文字は「 委ね従う 」とか
「 柔順なさま 」という意味をもつ漢字。
中国人が古代日本人の様子や姿恰好や行動からあてがった。
----------------------------------------------------------------
半分当たっているが、半分以上、肝心なことを書いてない!
「 倭 」とは、
・ チビ
・ 弱っちぃヤツ
・ なよなよしている。
・ 卑屈な
・ 劣る
・ 化外の者( 人間以下 )
の意味である。
つまり「 卑語 」。
「 邪馬台国 」と同じ。
この国名には、「 邪 」「 馬 」と云う卑字があてがわれている。
「 卑弥呼 」も同様。なんせ、「 卑 」を当てている。
【 ※10 】
一説には、日本人が自分たちのことを
「 わ 」(吾・我)と言っていたからだともいいます。
----------------------------------------------------------------
アホかッ!
いつの時代にでも、アホはぎょ~~~さんいるのである。
【 ※11 】
どうしてヤマトという呼称が広まったかといえば、
初期の王権の本拠が奈良盆地の大和の地にあったから
----------------------------------------------------------------
こんな白痴のドアホの見解、、、、云うもバカバカしいが、
後のコメントで詳述する。
【 ※12 】
語源的にいえば、もともとヤマトは「 山の門 」です。
----------------------------------------------------------------
違います。
邪馬臺国です。
邪馬臺国は、一般に、「 やまたいこく 」と読みますが、
邪馬臺は、「 やまと 」と読むことも出来ます。
この「 臺 」の字は、天子がおわします「 場 」の意味。
そこで、『 三国志 』を執筆した陳寿は、
蛮族の分際で無礼なり! と、「 邪馬壹国( やまい(ち)こく )」と
表記しました。
『 三国志 』に「 邪馬 」の国名が記さるのは、邪馬臺国と、
ベトナムだったか、ボルネオだったか、インドネシアだっただっかの
二箇所に使われています。
うまく検索しきれなかったですが、暇な方は調べてみてください。
つまり「 邪馬 」=「 ヤーマ 」が本来、その民族が自称していた
名称と考えられます。
支那人は、テメーーーら以外はすべて蛮族としているので
「 卑字 」を当てます。
つまり、「 邪悪な馬(馬鹿) = 邪馬 」という文字。
卑弥呼を継いだ臺與は、
「 臺 」= 天子のおわす場=台座、
+「 與 」= 神輿、誉
を顕しています。
「 ヤーマ 」は、多分まちがいなく、サンスクリットです。
サンスクリットの解る方、意味を教えて頂けると嬉しいです。
奈良盆地から大阪側を見ると連綿と続く
笠置山・二上山・葛城山・金剛山と続く山々を眺めていた大和人たちが、
自分たちの土地を「 山の門 」と言いあらわしたのでしょう。
----------------------------------------------------------------
違います。
「 山門( やまと )」は、現熊本県にあります。
地図:山門
http://inoues.net/setaka29.jpg この地図の「 邪馬台 」表記はとりあえず無視してください(ほぼ合ってるが )。
ここに「 山門 」がありますね。
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2008/12/22/2_2.jpg ここに女山(ぞやま)の神籠石、剣、兵士の絵があります。
10年以上前までは、この手の情報はネット内にいっぱいあったのですが、
今や断片的なチープな情報ばかりとなっています。
ダンボール古墳を発掘すれば、この兵士他の、塑像の写真が出てくるのですが、
かったるいのでそれはヤメにしておきます。
要するにここが「 山の門 」です。
背振山と阿蘇山の。
奈良は、「 山の門 」ではなく、「 盆地 」です。
あのエリアで「 山の門 」と言うなら、記紀的には生駒山の西側しかあり得ません。
なんともトチ狂った与太話としか言いようがない。
【 ※13 】
平安時代、そこは山城国と称ばれました。
ヤマシロとは「 山の背 」のこと。
平安京からすると、あの奈良の山々が背になったのです。
----------------------------------------------------------------
なんちゅ~~~~タワケたことを!!!
まず、「 山の背 」と云う時、それは一般的に北側にある。
「 天子南面す = 北辰 」の思想がある。
で、な~~~~んで南の奈良が「 山の背 」になる???
しかも、奈良は遥か南で、その間にはあれこれの地理的要素がある。
どこまでアホやねん!
なぜ、「 山の背 」か?
これは、純粋に軍事用語である。
山を背にすれば、眼下の敵は討ちやすい。
蘇我宗家が滅ぼされた後即位した孝徳天皇は、飛鳥を逃れて、
蘇我氏の貿易拠点に近い地に難波宮( 現在の大阪城 )を造営し遷都する。
ところが、反蘇我の中大兄王一派が、姉の斉明天皇、奥さん他を拉致して
飛鳥に連れ帰った。
難波宮が戦略的に軟弱 = 防御不能と悟った孝徳は、
淀川を遡って、淀川北岸に山城を築く。
これが「 山の背 = 山城国 」の興りである。
松岡正剛ともあろうものが、なんちゅ~~~アホなことを羅列してるのか!!!
見損なったぞ!
耄碌したか???
https://amzn.to/3NmZNVx
見るからに、ジイさんになったなぁ。。。。。
松岡正剛には、ドデカイ貸しがある。
いつか、それはあがなって貰おう。
万一、この文章を目にしたらなら、連絡してこい!
その贖いは、オマエにとってもこの上ない朗報となることだろう。
やっと、アンケート集計を再開した。
たったのあれだけの質問項目だが、集計だけでも大変だ!!!
集計はまだ半分も出来てないが、この後、記述回答の整理・分析も控えている。
アンケート1・2がどんだけ気違い沙汰の無謀だったか骨身に染みている。。。。
ホンマ、アホや!
で、感想等、読んでると、かなりの人が歴史をまるで理解してないことがわかった。
田中英道などという、ド阿呆のプロパガンダーをよく見る論者に挙げてる
ド阿呆が数名いて、ビックラこいたッ!!!
「 略 」や、「 略」の古代史ものに
参加してない人もそう云えば多いよな。
そうした人たちは、歴史の根本的な見方を全く知らない。
と、いうことで、本来なら今回のトピックは馬鹿らしくて
取り上げることもないのだが、全く「 本当の歴史 」の基礎知識のない
塾生たちに向けてその「 入門編 」を解説した。
僕が記したことが真実であるかどうかは、自分で調べ給え。
すべて真実であることが「 最終的に 」解るだろう。
だが、そこに至るには、かなりの試練を要することは保証しておこう。
すべてが、1300年に亘る、抹殺と隠蔽と改竄で覆われてる中、
真実の「 針 」を砂浜から見つけ出すのは容易ではない。
しかし、この針は欺瞞を「 突き刺す 」のである。
田中英道と云う高慢な大嘘つきジジイを擁するダイレクト出版は、
三橋貴明も含めて、「 神話が国威に必要である 」と説く。
ダイレクト出版の戦前の日蓮宗の「 八紘一宇 」的
三橋貴明、田中英道、そしてユダ公路線の参政党などの
歴史歪曲・人気取りベクトルは極めて危険である。
ダイレクト出版のこれら論者のトークは、
日本人の「 プライドに心地よい 」。
まさに、「 いつか来た道 」を辿ってるのがダイレクト出版と言える。
特に明治20年頃以降、「 捏造された神話 」が日本全土を覆い、
ヒロシマ・ナガサキへと導いた。
この明治20年前後を分けたものはなにか?
実証主義
である。
徳川江戸教育の中にいた人たちは、この「 実証主義 」が根底にあったため、
明治の目覚ましい発展を実現化した。
然るに、その次世代は、「 捏造された神話 」に埋没して
教条主義的な道を歩むのである。
その教条主義 = マニュアル主義 は、現在、デリバテブ的バブルを呈している。
「 神話 」は国民統合にあって、必要なものかもしれない。
しかし、その「 神話 」にウソがあってはならない。
あなたの概念・思考・感情のパーツはどこから来てますか?
もし、インプットデータ( 過去 )が間違っていれば、
アウトプット( 未来 )は歪にならざるを得ません。
ヒロシマ・ナガサキは、まさにこの「 歪 」に他ならない。
新たな神話は、真実 = それは痛みを伴う事実の直視
を通じてこそ、確立されなければならない。
我々日本人は優れてはいるがそんなに大した民族ではないのである、
なんたって「 倭 ※9 」なのである。
だ~~~からこそ、兵器でマスクをしたり
ゾンビ液をブッチギリの世界ダントツで注入できるのである。
痛みを伴う真の歴史と向き合った時、
日本人は初めて世界が真に尊崇する民族となるだろう。
偽の神話など、まっぴらゴメンだッ!
FUCK YOU
!!!!
関連情報
略 10「 倭王卑弥呼封殺と、日本の天皇即位「眞床追衾」儀式の由来 」
2018/01/13、2018/02/13、2018/02/22
< newsNueq-3552:初詣:神宮の由来・三種の神器のそもそも學 > 2022/01/03
< newsNueq-3332:日本神話の原型はヒッタイト神話だった!? > 2021/08/10
< newsNueq-3335:ヒッタイトの「 岩戸隠れ神話 」と火山爆発 > 2021/08/13
< newsNueq-295 :天照大神の正体と、伊勢神宮の本当の祭神 > 2017/07/23
< newsNueq-2263:卑弥呼の鉄鏡と同じ鉄鏡が曹操墓から出土! > 2019/09/09
< newsNueq-4121:呼びようのない形状 = 西ノ城古墳 & 楯築古墳 > 2023/02/21
< newsNueq-3427:ヤマト建国は縄文への揺り戻し運動だった !? > 2021/10/08
< newsNueq-2820:「 幕府・藩・天皇 」は捏造洗脳語 > 2020/08/01
< newsNueq-3551:初詣:二礼二拍手一拝のウソ八百 > 2022/01/02
nueq
貼り付け終わり、
※nueq さん解説。
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サンスクリットは分かりませんが、「ヤーマ」の意味を考えました。
ヨガ(ヨーガ)の呼吸法、プラーナーヤーマ(प्राणायाम, prāṇāyāma)
サンスクリットで
「気息、呼吸」を意味する「プラーナ」(प्राण, prāṇa)
+
「制御、制止、延長」を意味する「アーヤーマ」(आयाम, āyāma)
↓
आयाम(āyāma) →आयम् (āyam)に基づく、आ- (ā-) + यम् (yam)
Proto-Indo-Iranian *yam- ←Proto-Indo-European *yem- (“to hold”)
↓
ヤマ(サンスクリット語: यम Yama)は、インド神話における人類の始祖であり、また死者の主。仏教の閻魔はヤマに由来する。
インド占星術のジョーティッシュで、27の星宿をナクシャトラと呼ぶ。
2番目は「バラニー」、牡牛座、守護神はヤマ。
↓
2022年夏のコモンウェルスゲームズ開会式は「バアル(牛)」が登場する悪魔教儀式と言われた。
もしヤマ=死の神ヤマ、DSが信奉する牡牛だとしたら
邪馬台国は死の国で、四国は・・・・?
京都で牛が祭られていることに意味はあるのでしょうか。
神真都Q(やまと きゅー)という陰謀系グループが作られましたが
ヤマが死の神であれば、グループの「真の神」は・・・・?
歴史を知らずに名づけると勘違いが起こりますね。