我々現代人が今や手放すことができなくなってしまったアイテムの筆頭といえば、スマートフォンが挙げられるのではないでしょうか。そんなスマホを「位牌」に見立てるのは、心理学者の富田隆さん。富田さんはメルマガ『富田隆のお気楽心理学』で今回、スマホと位牌の奇妙なまでの共通点を解説するとともに、自身が人間の全ての創造物に対して抱いている思いを綴っています。
「位牌」を大切にする宗派にも、必要ないとする宗派にも、それぞれ一理あるワケ
椅子の背を倒し、イアフォンでお気に入りのトラディショナルを聴きながら、ボケ─ッと過ごしていた時のことです。机の上に立てかけられている自分のスマホに眼が止まりました。
「あ、あれに似てる」
黒々としたそのスマホは、革製のスタンドに鎮座していました。このスタンドは、何年か前の誕生日に息子がプレゼントしてくれたもので、眼鏡とスマホを並べて立てることができるようになっています。
この、もっともらしく直立している、黒光りした物体は、何かに似ていると、以前から思っていました。
ある時は、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』に出てくる「モノリス」のようだとも思いました。サイズの点では、実物(見たことは無いけど)よりもかなり小さいのですが、真っ黒でツルツルな外見はよく似ています。
それに、サルがこのモノリスに触れることで智恵を授けられ、賢くなって行く様は、熱心にスマホをいじり回している今日の人類にそっくりではありませんか。
ただ、よ~く考えてみれば、この「ピグミーモノリス」をいじり回すことで、人類が「新たな進化」を遂げることができるとは、とうてい思えません。どう見ても、「賢くなって行く」ようには見えないからです。むしろ、どんどんバカになって行くのではないか、と悲しくなります。まあ、要は使い方次第なんですがね。
今回も、そんな黒光りする板をボケ─ッと見ていたわけです。
この板、どうやら、心理学で使う「ロールシャッハ図版(左右対称なインクの染み)」のようなもので、見る人のその時の心理状態が「投影」され、その都度、違ったものに見えるようです。で?今回は何に見えたのか、というと。
それは、「位牌(いはい)」でした。
仏壇の中に置かれている、あの木の札です。多くの場合、黒い漆(うるし)が塗られていて、大きさも、スマホくらいのものが一般的(偉い人やお金持ちだと大きいサイズになりますが)です。位牌には亡くなった人の戒名(あの世の名前)や命日などが書かれています。これは、故人の霊を祀(まつ)り供養するためのものであり、英語では“Spirit Tablet”と訳されています。
英語で「タブレット」と言われるくらいですから、どことなくスマホに似ていると感じても不思議は無いのかもしれません。
その後も、私の妄想は勝手に暴走しました。
電車の中で位牌を撫で回している女子高生って、どうですか?ちょっと不気味ですよね。位牌相手にゲームを続けているサラリーマンを演じさせる俳優には、阿部サダヲさんが良いのではないかとか。位牌をジーッと見つめているオバサンの役は、もたいまさこさんで決まりだとか。ホラー映画よろしく、皆さんの放心したような顔が、次々に浮かんでは消えたのでした。
次ページ:「対話」を通してスマホを自身の位牌と化しつつある現代人
ところで、彼らが夢中になっている「スピリット・タブレット」の「スピリット」は一体何なのでしょう?
少なくとも彼らは、本物の位牌を拝(おが)んでいる時のように、自分の先祖や縁者の「スピリット」と対話をしているわけではありません。
それならば、様々なニュースやゲームなどを提供しているメディアの「集合神スピリット」から、特殊な洗脳でも受けているのでしょうか?それとも、SNSでつながっている「お友だち」の断片的なスピリットの欠片(かけら)を相手にしているのでしょうか?確かに、表層的なレベルでは、それぞれの場面で、これらの異なるスピリットと対話を繰り返しているのでしょう。
しかし、こうした表層的で多様なやり取りを超えたレベルの、個々のスピリットを統合した、もっと本質的な「何か」を想定することができるのではないでしょうか。それは、煎じ詰めれば、そのスマホの持ち主本人の「スピリット」とでも言うべきものなのです。スピリットというよりもソウル「魂」と言い換えた方が良いでしょう。
先人たちはよく、何かモノに「魂を込める」というような言い方をしてきました。「魂をこめて刀剣を造る」とか、「この彫像には作者の魂がこもっている」といった具合です。
こうした考え方は、日本をはじめとする「アニミズム的伝統」を受け継ぐ文化圏に共通した特徴のひとつです。ですから、あらゆるモノに魂が宿り得るという考え方を精神の基底にすえている人たちが仏の教えに出会えば、この世界を「山川草木悉有仏性」とみなすのはごく自然な成り行きなのです。「山や川でも草や木でも、あらゆるものに悉(ことごと)く仏性が有る」というわけです。
それなら、スマホにその人の魂が乗り移ってしまうというのも、自然なことのように思えませんか?
で、あるとすれば、現代人は、スマホという自分自身の位牌に向かって対話しているのでしょうか?いや、そうではなくて、現代人は「対話」を通して、スマホを自身の位牌と化しつつあるのです。スマホに自分の魂を込めているのです。
ということは、その人の対話が続く限り、位牌は変化を続けることになります。つまり、その人の位牌が「完成」するのは、その人の命が尽きる時なのです。
そして、そうやって完成した位牌もまた「かりそめ」のものでしかありません。位牌はその故人を偲ぶ「よすが(手がかり)」と言っても良いでしょう。その人の魂、つまり、その人の本質的なエッセンスはむしろスマホがつながっている先のネットワーク空間(サイバースペース)にあるのです。
次ページ:ますます似て来るのかもしれない「あの世」と「この世」
近年、ツイッターやフェイスブックなどのSNSに残された故人のつぶやきや投稿を大切に残したいという遺族や友人たちの声はますます強くなっています。私の知人のフェイスブックは、彼女が亡くなってから5年が経ちますがそのまま残されています。女優だった彼女のファンが今も訪れているのです。
最近、ツイッター社が「長期間使われていないアカウントを消去する」と発表した途端、猛烈な反対運動が起こりました。その背景にも、故人の「記憶」を大切にしたいという関係者の願いがあったのです。
そんな遺族や友人たちでも、その故人のスマホがリサイクルに回されることに異議を唱える人は少ないでしょう。位牌やスマホが「かりそめ」のものである、というのは、そういうことです。
もちろん一方では、スマホ本体を形見として手元に置いておきたいという人もいるでしょう。それが故人を偲ぶ「よすが」になれば、それはそれで意味のあることです。
こうした反応の分化は、仏教諸宗派の間で、位牌に対する見解が食い違っている現実にも似ています。上記のスマホの例を考えれば、位牌を大切にする宗派の言い分にも、位牌は必要ないとする宗派の言い分にも、それぞれ一理あるのです。
私は時々、人間が造るものは、全てが、精神世界の仕組みを真似たものではないかと思うことがあります。
近年隆盛を極めているインターネットなどのコンピューターネットワークも、私たち生命体の全てをつないでいる神秘的な(おそらくは「量子もつれ」や「量子真空」が関与している)精神ネットワーク(私は仮に「ψネットワーク」と呼んでいます)の真似事に過ぎないと思えてなりません。
ψネットワークや、それにつながっていて、宇宙の全てを記憶している量子真空(いわゆる「ゼロポイントフィールド」)は、太古からさまざな呼び名で呼ばれ、さまざまな姿で形容されてきました。しかし、呼び名や描写は違っても、先人たちは、それらの存在に気付いていたのです。
人間の創造力に、こうした「気付き」が反映されれば、新たな発明品は、どうしても精神世界の「何か」に似かよってしまいます。そもそも、天才の脳を直撃する「インスピレーション(霊感)」もまた精神世界からやって来ると言ったら、それは言い過ぎでしょうか。
あの世とこの世は、ますます似て来るのかもしれません。
(メルマガ『富田隆のお気楽心理学』より一部抜粋)
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