私自身は終末期ケアを受けている寝たきりの患者は、痛みも苦しみもなく、安らかな状態で寝ていて死を待っているという想像をしていた。しかし、私がそのような状態なのかを尋ねると、介護士は「そうではありません」と真っ向から否定した。寝たきりは、苦しみなのである。(『鈴木傾城の「ダークネス」メルマガ編』)
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プロフィール:鈴木傾城氏(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、主にアメリカ株式を中心に投資全般を扱ったブログ「フルインベスト」を運営している。
先日、名古屋で「終末期ケア」を行っている介護士に話を聞いた。終末期ケアは他にも「ターミナルケア」とか「看取りケア」とも言われるものなのだが、余命がわずかになった方に対して行う、医療・看護的、介護的ケアを指す。
日本は超高齢化社会になっているので、こうした「終末期ケア」の需要が非常に増えている。厚生労働省のデータを見ると、2010年に日本人の年間死亡数は120万人に到達し、これが今もどんどん増えており、2020年には140万人を超えるレベルにまで到達している。
さらに、ここからも上昇して2030年には年間160万人が死んでいくのではないかと推定されている。死亡数がこれだけ増えていくのは、もちろん高齢化社会の中で、高齢者が増えると同時に後期高齢者が死亡していくからである。
出典:厚生労働省:看取り 参考資料
高齢で体力もなくなり、どんなに医学的に手を尽くしても余命を延ばすことができない患者もいる。
そうした患者の場合は、苦痛のなかで延命させるよりも、最期を苦しまないで迎えさせるケア(看取り)を行った方が良いという考え方がある。「終末期ケア」は、そうした方向性の中で今の日本で需要が生まれている。
興味深いことに、この終末期のケアを自宅で迎える高齢者も2007年あたりから徐々に徐々に増えている。そのために、こうした高齢者を深夜も介護しなければならないので、深夜に終末期ケアの利用者の自宅に向かってケアをする介護士もいる。
私が名古屋で会った介護士は、そうした深夜の介護士であった。
「人間は寝たきりで生きられる身体ではない」
私自身は終末期ケアを受けている患者は、痛みも苦しみもなく、安らかな状態で寝ていて死を待っているという想像をしていた。しかし、私がそのような状態なのかを尋ねると、その介護士は「そうではありません」と真っ向から否定した。
「寝たきりになるというのは、どういうことか分かりますか?人間は寝たきりで生きられる身体ではないのです。寝たきりになっても生きたいという人はたくさんいるのですが、寝たきりの本当のつらさを知ったら考えが変わると思います」。
「動物も自分で食べることができなくなったら死の準備をするので、人間も同じなのだと思います。寝たきりはほんと本人も介護する方もつらいです」。
具体的にどのようにつらいのか。
「寝たきりになると痰が喉に絡みます。でも寝たきりの高齢者はそれを飲み込んだり吐き出したりする体力もないのです。嚥下(えんげ)機能が弱るので誤嚥性肺炎になったり、オムツで便の菌が尿道から入って尿路感染したり、褥瘡(じょくそう)という床ずれで、めちゃくちゃ痛いやつになったりします」。
長く生きていると、誰もがモノを食べている時に、食べ物が胃ではなく間違えて肺に入ってしまった経験を持つだろう。若く体力のある時は、そうした誤嚥は自分で吐き出せるが、寝たきりになると誤嚥を戻す体力がない。
高齢者はしばしば誤嚥し、咳き込み、誤嚥性肺炎という非常に苦しい状態に追い込まれる。これを避けるために行われるのが「胃瘻(いろう)」なのだが、胃瘻は身体の一部に穴を開けて栄養素を無理やり胃に送り込む医療行為である。
欧米では胃瘻を「非倫理的である。老人虐待である」と考えているのだが、日本ではこの胃瘻が普通に行われている。他にも経鼻胃管というやり方もあるのだが、これもまた大きな苦痛をもたらすものである。
しかも、寝たきりなので、血液がどんどん背中側に溜まって鬱血するような状態となり、皮膚もこすれてただれて本人は痛みに苦しむ。ただ「安らかに寝ているだけ」ではない。
「人間は寝たきりで生きられる身体ではない」ので次々と問題が発生するというのだ。
毎日、シャワーや風呂に入ることもできない。寝返りも打てない。痰がからんでも自分で吐き出せない。しばしば誤嚥に苦しむ。そして排便も自分でできないのでオムツの中に垂れ流しになる。
人間は何もできなくなると、安らかに休めるのではなく、絶えず襲いかかる不快感の連続でずっと苦しみながら過ごすことになる。
だから、本人の苦痛を少しでも減らすために「ケア」が必要なのだが、そのケアは「付きっきり」となる。寝たきりの高齢者を真夜中もケアしないといけないのだ。
そして、付きっきりになったとしても、すべての苦痛に瞬時に対処できるものではないから絶え間ない不快感や苦痛から逃れられない。
痰が絡んだら瞬時に取り除いてくれるわけでもないし、寝返りを打ちたいと思ったら瞬時に寝返りを打たせてくれるわけでもないし、排泄物は瞬時に取り替えてくれるわけではない。そもそも紙オムツもタダではないので、なるべく長持ちさせるための工夫も必要となる。
そうなると、不快感がずっと続いたり、「便の菌が尿道から入って尿路感染」したりすることになる。それだけではない。
「オムツの中は常に蒸れているので、男性の方は睾丸の皮がふやけて真っ白になり、痒くて痒くてオムツを外した時に血が滲むほど掻きむしってしまう方もおられます」。
後期高齢者で寝たきりが長引けば、そうした苦痛を口にすることも筆談することもできなくなってしまい、認知にも問題が発生し、自分がどのように苦しいのかをうまく伝えられずにもがき続ける高齢者もいるという。
特別養護老人ホームにはそのような全介助の人ばかりが入居してるのだが、病院だろうと、診療所だろうと、介護老人保健施設だろうと、老人ホームだろうと、自宅だろうと、寝たきりが「快適だ」というのはない。
「寝たきりになるというのは、そういうことなのです」と、介護士は述べた。
自宅で最期まで療養すると「慣れた環境の中で安らかな死を迎えられる」と思っている人が多いようだが、そうではない。きめ細やかな「終末期ケア」を求めれば求めるほど、経済的なコストもかかってくる。
経済的なコストを乗り越えて医師が往診してもらうとしても、訪問介護の体制が整ったとしても、寝たきりは「それ自体が苦痛をもたらすもの」なのだ。
しかし、私の会った介護士は「寝たきりの苦痛はよく認識されていないと思います。だから、寝たきりになっても生きたいという人がいるのだと思います」と述べた。
「認知症で、寝たきりで、後は死を待つだけで、絶えずそうやって苦しんでおられる後期高齢者の方は、もう本人の意志に関係なく安楽死を考えた方がいいと思うのですが、そのあたりはどう思いますか?」
私が尋ねると、介護士は直接それに答えず、再びこの言葉を繰り返した。
「動物は自分で食べることができなくなったら死の準備をします」
介護士には職業的な道徳心と倫理観があるので、部外者の私のように「安楽死は賛成です」とは言えない事情はある。
まして、無条件に安楽死賛成を言っていると、命の尊厳も考慮しない安楽死も出てくる恐れもある。優生思想の問題もある。だから、簡単に「安楽死が良い」とは言えない部分もあると思う。
しかし、意思疎通もなく寝たきりで苦しみ、余命いくばくもないような状態なのであれば、私は厳密な医師による判断の中で、安楽死という手段は認められて然るべきだと思っている。
日本人は「自らの死」をどうするか、決断しなければいけないのではないか。何も考えないで、寝たきりで生かされることは幸せなのかどうか、尊厳死や安楽死は必要か不必要か、もっと現状を良く見て議論をすべきなのだろう。
寝たきりは「静かで安らかな状態ではない」ということを、まずは認識すべきだ。
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貼り付け終わり
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