※テレビでよく出てくる歴史学者、
小和田哲男が「馬場信治の子孫」であるといっていますが自らを朝鮮人と公言しているようなもので滑稽です。

朝鮮人に乗っ取られてしまった今や反日局のNHKやTBSのコメンテーターや学識者として意見を述べていますが彼の歴史観は
朝鮮人至上史観なので
信ぴょう性に欠けると言わざるをえません。
裏の顔は朝鮮総連の工作員で日本を画策することが主たる仕事です。
武田信玄と信玄の部下 : 山県氏 (源氏)
武田信玄の『武田四天王』といわれる重臣中の重臣で真っ赤な戦闘服で戦った有名な軍団がいました。後に徳川家康の部下、井伊家がこの色を引き継いでいます。
『山県昌景』という武将です。
彼の先祖は
美濃国(岐阜県)山県郡発祥で
『源 国直』が美濃山県氏の始まりで山県頼清と名乗りました。
その子孫の山県家信という人物が甲斐武田家に頼り、甲斐国に移住、そして家臣になりました。
山県氏の家紋は清和源氏嫡流の源頼光を祖先にもつ
土岐氏:明智光秀と同じ桔梗紋です。

山県家の先祖の血筋をたどると源国直→源 頼光→清和源氏→56代清和天皇の子であったことが分かります。
信玄の部下について3名を上げましたが、この他の『武田24将』も血筋をたどると朝鮮半島渡来人の血筋へと行き着きます。
武田信玄と信玄の母
山梨県の3分の2を占めていた『巨摩郡:こまぐん』という土地がありますがこれは高麗から来た古間という言葉で、後にこの土地を、巨摩郡と変えました。
この土地で大いに権力を発揮したのが渡来人の子孫である大井家でした。
大井家は戦国時代に入り、隣国との争いで弱体化していきます。
そんな中、隣国との和睦や同盟国になるために交わしたのが親族の結婚でした。
ほぼそれは国主の娘が嫁ぐ形が多くありました。
戦国時代、巨摩郡に住む大井家の当主は『大井信』と言いました。
彼は武田信玄の父と対立し窮地に追いやられますが、何とか勝利し、和睦します。
その人質として差し出したのが『大井の方』でした。彼女は信玄の父:信虎と結婚し生まれたのが武田晴信のちの信玄です。
大井氏は高句麗系の渡来人ですから信玄は渡来人の血を引くことになります。
※甲府市愛宕町208に『長禅寺』というお寺があり、ここに信玄公の母『大井の方』のお墓が祀られています。
武田信玄と先祖
信玄のルーツをたどると先祖は『源義光』と言います。彼の本名は『新羅三郎義光』といいます。
日本での出身は近江、現在の滋賀県となっていますがれっきとした朝鮮半島渡来人であり『新羅国:しらぎこく:신라국』の人です。
Wikipediaや、インターネットでは
「滋賀県の新羅善神堂(三井寺の近く)で元服をしてこの名前を授かった、新羅人ではない」と書かれていますが、これは間違いです。
渡来人文化の書籍などで有名な、金達寿氏の『日本の中の朝鮮文化 7』にも武田信玄の先祖は渡来人と書かれています。
その他、新羅善神堂や、静岡県浜松市史書などを調べると、分かってきます。
これは明治以降に歴史を湾曲されたものです。
『信玄の母の系統も朝鮮半島渡来人』『武田信玄直系も朝鮮半島渡来人の血筋』つまり武田信玄は朝鮮半島渡来人の血を、色濃く引き継ぐ人物ということになります。
信玄の旗『風林火山』の孫子の兵法も中国から朝鮮半島渡来人が日本に持ち込んだものです。
源義光(新羅三郎義光)について
今回この結論に至るまで長い時間を費やしましたが、以下の内容でつながると思います。
浜松市に中田島砂丘という日本三大砂丘があります。この近くに新羅大明神という神社があります。
だいぶ規模は小さくなり、中々見つけにくいのですが、これについて『浜松市史』の編集にたずさわった渥美清一氏が『浜松の新羅大明神と小笠原基長』という本にかなり詳しく書いています。
この本によると、浜松の新羅大明神は1723年の江戸時代に創建されたようです。
そして小笠原基長が自分の祖神である滋賀県の新羅善神堂から勧請し、建てたそうです。
さてこの小笠原基長という人物の先祖は、源義光で別名:新羅三郎義光であることから新羅大明神を立てることは当たり前のことであったようです。
ここで次の本になるのですが、小笠原基長は生前に『新羅大明神祀記』を書き残し次の文章を残しています。
「新羅善神堂は元々朝鮮半島渡来人の大友氏の神社であり、創建を新羅三郎義光がたずさわり、その上、新羅大明神の氏人(同族の意味)である。」と書かれています。
滋賀県の新羅善神堂は新羅系渡来人が建てただけでなく義光自身が氏神を敬ったということなのです。また氏人とあることから新羅人ということも分かります。
つまりWikipediaや、インターネットなどで書かれている『源義光が新羅善神堂で元服して名前を新羅三郎義光にした』というのは間違いであり源義光は歴とした渡来人だったのです。
新羅三郎義光と名を改めたのは、先祖の名に戻りし行為だけでなく自ら新羅一族の子孫であることを名乗った行為だったのです。
そしてその直径の子孫、武田信玄は母も父も渡来人の血を引く子孫なのです。
(提供:蒼天求白雲)
源頼朝を創設者とした鎌倉幕府が坂東武士である平氏の北条時政・北条義時らに乗っ取られたことで平氏の時代になるも源氏の新田義貞に滅ぼされ源氏の足利氏が京に室町幕府をつくります。しかし室町幕府もやがて南北朝の動乱に幕府の力を失っていきました。
南北朝時代を経て戦国時代になったことで朝鮮武士勢力は次のヒーローを立てることを迫られます。
都から遠すぎた関東での蜂起に失敗(鎌倉幕府)したことや直に都に幕府を置いて失敗したことを受け
甲信地方で朝鮮勢力の強かった甲斐の国に白羽の矢が立ちました
坂東(茨城)から派遣されていた清和源氏直流:武田家の長男:晴信を担ぎ壮大な計画が立てられました。
無能な晴信の父親を家臣団が源氏仲間の今川に追い出すことがスタートでした。
信玄の血を拡散すべく松平家に子を残し桶狭間を演出したのです。
信玄の隠れた目的は強い平氏の北条家を都に上洛させない役目もありました。
※都への上洛最短経路の同族の美濃には手を出していません
武田信玄を英雄視する学者やドラマ・映画・歴史書はあっても卑下することはありません。
日本国内の朝鮮人のヒーローであり続けなければならないからです。
56代清和天皇による清和源氏は50代桓武天皇の子孫である桓武平氏に対抗し関東地方に居住する際に朝鮮系の人を「武士団」として結集しました。
このようにして朝鮮人天皇VS日本人天皇の抗争は藤原氏の時代から今日まで1,400年もの間絶えることなく続いています。
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実に興味深い記事でした (^^♪