5300年前に氷づけになったミイラとして知られる「アイスマン」。発見された場所にちなんで「エッツィ」とも呼ばれるこの男性の胃の残留物について新 たにDNA分析を実施したところ、ピロリ菌(ヘリコバクター・ピロリ)が見つかった。しかも、それは現代ヨーロッパ人には見られないタイプの細菌株だっ た。(参考記事:2007年7月号特集「アイスマン その悲運の最期」)
ピロリ菌は世界中で多くの人の胃にすみついている菌で、胃潰瘍や胃がんの原因になる。科学誌「サイエンス」に1月7日付で発表された研究結果によると、 アイスマンから検出されたピロリ菌株(これまで検出された中では最古)から、アイスマンが生きていたのは、ある人類移動により現代ヨーロッパ人特有の細菌 株ができあがるより前の時代らしいことがわかった。
アイスマンは1991年にイタリアとオーストリアの国境付近でハイカーに発見され、それ以来繰り返し分析されてきた。凍結した遺体が着ていた衣服の素材 から、体内に入り込んだ花粉に至るまで、あらゆるものを調べた結果、初期ヨーロッパ人の外見や生活、死因などについて、多くの手掛かりが得られた。(参考 記事:「ヨーロッパ諸語のルーツは東欧。DNA分析で判明」)
論文の筆頭著者で、イタリア、ボルツァーノにあるミイラ・アイスマン研究所のフランク・マイクスナー氏は、アイスマンを「最も名の知れた、最も詳しく分析された患者」と評する。
徹底した分析の結果、この男性は茶色の目と乳糖不耐性の体を持ち、農耕を営む共同体に暮らし、現代のサルデーニャ人に最も近いといった事実がわかってきた。2000年代には、肩に矢を受け、鎖骨下動脈を傷つけられて殺されたということも判明した。
研究者たちが解明に躍起になったのが、アイスマンの最後の食事だ。初期ヨーロッパ人の食生活について貴重な情報が得られると期待されたが、胃と思われる 器官は空っぽで、研究は何年も行き詰まっていた。状況が打開されたのは2011年、それまで胃と考えられていた箇所が実は結腸で、胃は長い凍結期間のうち になぜか胸郭の中へ押し上げられていたと判明した。ようやく見つかった彼の胃からはさまざまな食べ物が見つかった。
2010年にナショナル ジオグラフィック協会が一部助成して行われた解剖では、胃から「土のような」どろどろした物質が見つかり、詳しい化学分析も行われたが、当時は特に手がか りが得られなかった。しかし研究者たちはこれらのサンプルや、それまでに検出された残留物からピロリ菌を探しだすことに成功した。(参考記事:2011年11月号特集「アイスマンを解凍せよ」)
現在は衛生学の進歩で減りつつあるが、かつては全人類のおよそ半分がピロリ菌に感染していた。この菌は人間と共存する微生物としては最古の部類に入る。 現在のピロリ菌株からさかのぼった遺伝子系統樹からは、10万年以上前に人類がアフリカを出たときにはもう保菌しており、やがて世界中に広まったことが分 かっている。
また、ピロリ菌は人間のDNAよりも早く突然変異を起こす。遺伝学者はこの性質を利用して、数千年の間にピロリ菌とそのキャリアである人間がどのように地球上を移動し、変化してきたか追跡している。
現代のピロリ菌株を見ると、古代にピロリ菌の系統樹が少なくとも6つに分かれ、異なった系統の菌が地域ごとに蔓延している。しかし現代ヨーロッパ人の胃 にみられるピロリ菌株は「AE1」「AE2」と呼ばれる2系統が入り混じっていると考えられている。これらの菌株がいつ、どのように混ざったのかは不明だ が、「人間が手を貸した」ことは確かだ。
「ピロリ菌の宿主は人間だけですから、人間が実際に『一緒になる』以外に、菌の集団が混ざることはあり得ません」。論文の上席著者の1人で、南アフリカ、 ベンダ大学のヨシャン・モードリー氏は、記者会見でこう語った。「『一緒になる』とは、近距離で接触するということです。子ども同士が一緒に遊ぶことも あったでしょう」
これまでの研究で、古代ヨーロッパ人は当初AE1のピロリ菌を持っていたことがわかっている。この系統の菌は、中央アジアで進化し、現在南アジアで最も一般的になっている。
一方、AE2のピロリ菌は、北東アフリカからヨーロッパへの人類移動によってもたらされたが、それがいつのことかはわかっていなかった。だからこそ死亡年代が判明しており、胃の残留物は手つかずというアイスマンが重要視されたのだ。(参考記事:「欧州人の遺伝子、形成は旧石器時代か」)
マイクスナー氏らの研究チームは、アイスマンの胃から指の爪ほどの残留物を採取し、DNAを慎重に分離して、現代のピロリ菌株と相互参照した。まず分離 したDNAが古代の物であることを確認すると、次いでその大部分がアジアの株(AE1)であり、アフリカ株(AE2)に由来するのはDNAのわずかな断片 に過ぎないことを突き止めた。
つまり、北東アフリカの人々がどっと流れ込んだのはアイスマンの死後ということになる。ただし、アフリカの菌株がわずかに混ざっていることから、 5000年前のヨーロッパが旅する人々の交差点であったことがうかがえる。このことは、考古学や遺伝学の証拠とも一致している。
「移住が継続的に行われていたことで、菌も絶え間なく混ざり続けていたのです」と語るのは、論文の上席著者の1人で、ミイラ・アイスマン研究所所長のアルバート・ジンク氏だ。「一度や二度大きな移住があっただけではないといえます」(参考記事:「人類の出アフリカは定説より早かった?」)
今回の研究には関わっていないが、英スウォンジー大学のダニエル・ファルシュ氏は、ピロリ菌によって人間の移動を完璧にたどれるわけではないと注意を促 す。同氏はヨーロッパ人が持つピロリ菌の特徴を自らの研究で明らかにしてきたが、今回の研究成果を「個人的には喜んでいます」と付け加えた。
今回の研究ではアイスマンも病と無縁ではなかったことが明らかになった。ピロリ菌が原因で起こる体の不調にじっと耐えねばならなかったようだ。
アイスマンのピロリ菌のゲノムを詳しく調べたところ、この株は特にたちが悪く、炎症を引き起こす遺伝子を含んでいた。現在のピロリ菌の変種にも見られる ものだ。おまけに、炎症に反応して現れるタンパク質の形跡も見つかったことから、死亡時にはひどい胃痛に悩まされていた可能性がある。(参考記事:「世界のミイラでわかる古代の病気」)
しかし研究チームはアイスマンが胃炎や胃潰瘍、あるいはピロリ菌感染による異常な疾患を患っていたとの断定は避けた。そう判断するには無傷の胃の内壁が必要だが、氷塊の中で5000年を過ごしてきたアイスマンにそれは望めない。
「アイスマンの生活は、いわばとても『きつい』ものだったとわかりました」とジンク氏は話すが、それは当時としては珍しいことではなかった。「現代人からすれば間違いなく過酷な生活ですが、当時の状況を考えれば、彼はむしろ健康な方だったと思います」
今回の研究で、物証の乏しい初期ヨーロッパ人の起源に関して解明が進み、人類が移動した時期についても1本の線が引かれた。胃にあった痕跡は、多くの現代人も抱えるものだ。
「アイスマンは私たちの祖先がどのように衣服を作り、生活し、何を食べていたのか教えてくれました。そして今回は、抱えていた病気まで」とマイクスナー氏は話した。「まるでタイムマシンに乗ってきたかのようです」
文=スティーブン・S・ホール イラスト=サノ・カズヒコ
今から5000年以上も前のイタリア・アルプス。春から夏に変わるころ、山々に向かって北に伸びる狭い谷に、ホップホーンビームというカバノキ科 の高木が、鮮やかな黄色い花をそっと咲かせる。一人の男が慣れた足取りで森を駆け抜けていた。右手の傷の痛みに顔をゆがめ、ときどき立ち止まっては、追っ 手の気配に耳を澄ませる。坂道を登って逃げるとき、霧雨のように降りそそいだホップホーンビームの黄色い花粉は、男が口にした水や食べ物にもかかってい た。
それから5000年あまりが過ぎた1991年、イタリアとオーストリアの国境にあるエッツタール・アルプスの岩陰で、ミイラ化した男性の遺体を登山者が発見した。「アイスマン」と呼ばれるこのミイラは、新石器時代のものだった。
以来、アイスマンは科学者たちの手によってあらゆる角度から分析されてきた。体内から検出された微量の古代の花粉は、顕微鏡でないと見えない微細なものだが、アイスマンがこの森を駆け抜けて近くの山に入り、息をひきとった年代を示す重要な証拠だ。
発見地にちなんで「エッツィ」という愛称でも知られるアイスマンは、完全な姿を残す人類のミイラとしては最古のものだ。背が低く、がっしりした体 格で、亡くなったときは40代半ばだったことがわかっている。当時ならかなり年配と言っていいだろう。貴重な銅刃の斧を持っていたことから判断すると、社 会的な地位がかなり高い人物だったと考えられる。
そのいでたちは、衣服を3枚重ね着し、底がクマ皮でできた丈夫な靴を履くというものだった。装備も万端で、先端が火打ち石でできた短刀や火おこしの道具を携え、火種として使う燃えさしをカエデの葉で包み、カバノキの樹皮でつくった容器に入れていた。
しかし、山に入ろうとするにしては、所持する武器は心細いものだった。シカ皮の矢筒に入っていた矢はつくりかけで、まるで矢を使い切ってしまっ て、新たにつくっている最中だったかのようだ。荒く削っただけのイチイの長い枝はつくりかけの大弓で、切りこみも入れていなければ、弦も張っていない。 いったいアイスマンに何が起こったのだろう。
アイスマンのことになると、疑問も、それに答える学説も尽きることがない。これまでに、道に迷った羊飼い、呪術師、儀式のいけにえではないかとも 言われたし、菜食主義者であるといった説すらあった。だが、科学者たちがこのほど見いだした驚くべき新事実は、過去の諸説を一掃した。5000年前のアル プスで何が起きたのかは今でも正確にはわからないが、アイスマンが殺されたこと、それも即死に近い状態だったことは明らかだ。
「つい5年前でも、アイスマンは山の上に逃げて雪の中を歩き回り、野ざらしになって死んだのだと考えられていました」と、オーストリアのインスブ ルック大学の植物考古学者クラウス・ウグルは語る。「でも、死因をめぐる学説は今や一変しました。どうやらこれは古代の殺人事件だったようです」
科学者たちがこれほどまでに注目するアイスマンのミイラは、まるでフリーズドライにしたビーフジャーキーのような状態だ。1998年以降、イタリア北部のボルツァーノにある南チロル考古学博物館で、最新鋭の冷凍室に保管されている。
現在、英国ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校に勤めるウルフガング・ミュラーは、科学者たちを率いて、アイスマンの歯の1本に含まれている同位 体を高度な方法で分析した。その結果、アイスマンが育ったのは、おそらくボルツァーノの北東にあるイザルコ渓谷であることがわかった。また、骨の同位体の 比率は、イザルコ渓谷の西にあるセナーレス渓谷とベノスタ渓谷の水や土と一致した。
アイスマンの腸からは雲母が見つかった。石でひいた穀物を食べたときに、偶然飲みこんだらしい。顕微鏡で分析したところ、アディジェ川とセナーレ ス川の合流地点であるベノスタ渓谷下流の、ごく限られた地域のものと年代が合致した。アイスマンはおそらくこの地から、生涯最後の旅に出かけたのだろう。
当時アイスマンの健康状態が悪かったこともわかっている。一つだけ残っていた手の爪から、死ぬまでの最後の6カ月間に3回重病にかかり、最後の発 病が死ぬ2カ月前だったことがわかった。腸の内容物から寄生虫である鞭虫の卵が見つかったことから、アイスマンは腹痛を抱えていた可能性が高い。だが、食 欲はあったようだ。2002年、イタリアのカメリーノ大学のフランコ・ロロと共同研究者たちが、腸にわずかに残っていた食べ物のかすを分析したところ、ア イスマンは死ぬ1、2日前に野生のヤギの肉と何らかの植物性の食べ物を食べたことがわかった。
また、最後の食事がアカシカの肉と何らかの穀物だったことも判明した。植物考古学者のクラウス・ウグルは、腸に残っていたもみ殻のくずような物質 から、アイスマンは衣服から見つかった大麦だけでなく、小麦の最も原始的な栽培種の一つであるヒトツブコムギも食べていたと結論づけた。アイスマンが暮ら していたアルプス南部では、新石器時代にこれらの穀物を栽培していたことになる。腸からは小麦と炭のかけらも見つかった。穀物をひいて粉にして原始的なパ ンを作り、直火で焼いていたのだろう。
植物考古学者たちは花粉と植物の断片についても同様に詳しく分析し、アイスマンの最後の行動を再現しようと試みている。英国グラスゴー大学の ジェームズ・ディクソンは、アイスマンの体内と体表、周囲からコケを見つけた。その種類は、はっきりわかっているだけで80種にもおよぶ。ディクソンによ れば、アイスマンが所持していた植物の茎の束から考えると、コケは食べ物を包むために使われていたのではないかという。だが、同様のコケをトイレットペー パーとして使っていた古代人もいた。
これらの研究結果を総合すると、アイスマンは、春にホップホーンビームの花が咲く標高の低い落葉樹林から、最後の旅に出た可能性がきわめて高い。 ただ、そのまますぐに山頂に向かっていったのではないようだ。アイスマンの消化器官には、ホップホーンビームの花粉の前後に、微量のマツの花粉が残ってい た。このことから、マツ林の広がる標高の高い場所に登ったあと、ホップホーンビームの生える低い場所にいったん下り、亡くなる1、2日前に再び登ってマツ 林に入った可能性がある。理由は定かでないが、森が深く急峻なセナーレス渓谷下流を避けたかったのかもしれない。急いでいたとすれば、なおさらだろう。
2001年6月、ボルツァーノ中央病院の放射線科長ポール・ゴスナーは、アイスマンが保管されている冷凍室に携帯用の小型X線装置を持ちこんだ。 折れた肋骨の骨折部分を分析するためだ。翌日、アイスマンの管理責任者であるエドゥアルト・エガーター・ビゲルの部屋に立ちよったゴスナーは、肋骨の骨折 は古いもので、興味深い情報はあまりないと報告した。
「その代わり、何かよくわからないものを見つけたんです」とゴスナーは言う。「奇妙な異物が左肩に見つかりました」。このとき撮影した胴体のX線 写真と3カ月前に撮ったX線CT(コンピューター断層撮影)装置の画像を、インスブルック大学の科学者が以前に撮影した写真と比べたゴスナーは、オースト リアの共同研究者たちが見逃したものを発見した。アイスマンの左の肩甲骨の下に、10円玉より小さい三角形の濃い影があったのだ。これは石の矢じりである ことがわかった。のちにエガーター・ビゲルが「偶然の産物」と語ったこの発見は、5000年以上も昔に起きた不可解な死を、一瞬にして、考古学上、最も興 味深く冷酷な殺人事件に変えた。
2005年にボルツァーノ中央病院では最新のマルチスライスCT装置を導入した。そのおかげで高解像度の撮影が可能になり、さらに興味をそそる分 析結果が得られるようになった。2005年8月、医師たちはアイスマンを特製マットレスに乗せ、断熱材で覆って大量の氷で包み、車で10分の距離にある博 物館まで、警察の護衛つきの救急車で運んだ。到着すると、まるで重体の救急患者でも扱うかのように、アイスマンをCT装置に運びいれ、断層画像を手早く何 枚も撮った。
結果は驚くべきものだった。火打ち石と思われるとがった石の小片が、アイスマンの左の鎖骨下動脈に1センチもの深手を負わせていたのだ。この動脈 は、心臓から送りだされた新鮮な酸素が豊富な血液を、左腕に送る大きなものだ。それがこのような重傷を負うと、ほぼ間違いなく出血が止まらなくなり、あっ という間に死に至るはずだ。
この新たな医学的分析結果から、アイスマンを殺した人物は後方下側から1本の矢を放ち、左の肩甲骨を傷つけたことがわかった。先史時代の狩人が獲 物を一撃で仕留めるときに狙う場所とまったく同じだ。矢は骨を突き抜け、動脈を傷つけた。血は即座に止めどなく流れ出し、肩甲骨と肋骨の間にたまった。死 ぬまでのわずかな時間、アイスマンは出血性ショックの典型的な症状を示したはずだ。心臓の鼓動が急激に速くなり、海抜3000メートル以上の高地にもかか わらず、衣服が汗でぐっしょり濡れた。脳に供給される酸素が不足し、だんだん気が遠くなる。数分後、アイスマンはばたりと倒れ、意識を失い、出血多量で息 をひきとった。
そして、さまざまな幸運が次々と重なり、エッツタール・アルプスの厳しい気候が、アイスマンの亡骸をこれ以上ないほど完璧な状態で保存したのだ。 氷河時代の極寒の環境下で、雪や氷、氷河の解けた水が冷たく湿った毛布のようにアイスマンを包みこんだ。深い溝にはまったために、5000年以上もの間、 氷河に骨をすりつぶされることもなかった。
アイスマンを殺したのはいったい誰なのか。動機は何なのか。殺人現場に残された奇妙で些細な事実が、その謎を解くカギなのかもしれない。アイスマンに致命傷を与えた矢の柄が見つからないのだ。誰かが体内に矢じりの石を残したまま、柄を抜きさったに違いない。
「アイスマンを矢で射殺したのと矢を抜いたのは同一人物だと思います」とエガーター・ビゲルは言う。2007年5月にドイツの考古学雑誌「ゲルマ ニア」に掲載された論文で、エガーター・ビゲルらは、先史時代の矢をつくるときに残された跡で、矢を放った人物を特定できると述べている。ちょうど弾丸に 残る旋条痕から、その弾丸を発射した銃を特定できるのと同じようなものだ。アイスマンを殺害した人物は、証拠隠滅のために柄を抜きさったのだろう。
ほかにも、アイスマンに致命傷を負わせた一矢が放たれる前に、激しい格闘が行われた可能性があるという研究成果が発表され、物議をかもしている。 2003年、オーストラリアのクイーンズランド大学の分子考古学者、故トム・ロイは、アイスマンの衣服と武器から少なくとも4人の血液を検出したと主張し た。だが、このロイの研究は報道で伝えられただけなので、疑り深い科学者たちは、科学雑誌に発表されない限り評価のしようがないと言う。
それでも、アイスマンが複数の人物に襲われたというロイの説は、インスブルック大学の考古学者で、弓矢と石器時代の文化に詳しいワルター・ライト ナーの唱える「犯罪説」とも一致する。ライトナーは、部族内の抗争でアイスマンを暗殺しようとする動きが起き、最終的にアルプスの山頂で血なまぐさい殺人 事件という結末を迎えたのではないかと考えている。
顕微鏡で調べたアイスマンの手の傷が治りかけていることからして、抗争は致命傷を負った最後の戦いより前から起きていたのだろう。「アイスマンが 死ぬ少なくとも前日、おそらく2、3日前から何らかの戦いがあったにちがいありません」とエガーター・ビゲルは言う。ライトナーの推測では、「アイスマン の政敵は力をつけてきていたのでしょう。しかしアイスマンは自分の治世が終わりを迎えつつあることに気づかず、地位に固執したのだと思います」。村での戦 いのあと、「アイスマンは逃亡を計画したが、政敵によって行く手を断たれてしまったのではないでしょうか」とライトナーは考えをめぐらせる。
アイスマンの死因について、これまで間違った学説がいくつも出ていることを考えると、一見もっともらしいこの学説も、引き続き調査を重ねて信ぴょ う性を高めていかなければならない。人里離れたアルプスの尾根で起きた不可解な惨劇は、1枚の爪、わずかに残った食べ物、花粉の粒子といったごく小さな証 拠と科学的推理の積み重ねにより、新石器時代の犯罪として再現されつつある。アイスマンのひからびた口が5000年の時を越えて真実を語ることはないが、 今後も調査を続けることで、石器時代の生活、そして死についても、さらに驚くべき新事実が明らかになっていくはずだ。
natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0707/feature03/_03.shtml
ナショナル ジオグラフィック日本版さんちから転載しました。m(_ _)m
イタリア・アルプスの氷河から見つかった新石器時代のミイラ「アイスマン」。“凍れる男”の謎解きに挑む研究チームは、大胆にもアイスマンを解凍し、解剖による徹底調査に踏みきった。
アルプスの氷河で発見された5300年前の男性のミイラ「アイスマン」。氷づけになっていた貴重なミイラは、発見時の状態そのままに冷凍保存されてきたが、2010年11月、なんとその体を解凍することになった。目的は、解剖による体内各部の徹底調査だ。
アイスマンの「人となり」や「死因」については、発見以来、さまざまな角度から調査が進められている。2001年には新発見の証拠から、実は背後から矢で射られていたことが判明。なんと殺人事件の被害者だったことまでわかってきた。
そんな中、引退後もこつこつ画像の検討を続けていた研究者から、思わぬ指摘が舞い込んだ。「アイスマンの胃はからっぽだった、という“定説”は、実はまちがっていたのではないか」――これまで見落とされていたところに、重要な手がかりが残されていたのだ。
アイスマンの「最後の食事」は、果たしてどんなメニューだったのか? 専門家7チームによる徹底解剖でわかったことは? 世界が注目する最新の成果をレポートする。
natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20111020/288025/
ナショナル ジオグラフィック日本版さんちから転載しました。m(_ _)m
*素晴らしい記録ですので、メモっておきます♪
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