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人生は死ぬまでの暇つぶし  自然にその日を迎えるまで、サバイバル(健康・経済・社会情勢・天変地異・・・)  真実、真相、本質、一を知りたい

★フルベッキ写真考!

有名なフルベッキ写真ですが、名前に間違いがあります。
陸奥宗則と高杉晋作があべこべになっているのです。
顔がひょろ長く、龍馬の副官だった陸奥は当然、龍馬のすぐ後ろ(32)にいます。
25.陸奥宗則 と書かれているのは、「 喧嘩太郎 」 高杉晋作です。
面構えからして「 喧嘩太郎 」そのものです。
高杉の有名な写真はひょろ長い顔ですが、あれは結核になってやせ細った時の写真です。
また、左下に慶応元年正月とありますが、実際は慶応元年3月5日です。
ので、これまで間違って流布されていた点を2点、ここで訂正しておきます。
そして、この写真の左端に幕閣からただ一人:勝海舟が出席していいますが、彼がこの会議の主催者であり、影のプロデューサーが徳川慶喜だったのです。
nueq.exblog.jp/19958138/
1tamachan.blog31.fc2.com/blog-entry-6035.html

*以上はニュークさん説です。↑




ついで亀さん説です↓


一点目だが、落合さんによれば「フルベッキ写真の例の青年は、践祚前の睦仁親王だと落合さんは推測しているが、それなら青年は12~3歳であるので信じがたい」と、斎藤さんが落合さんに対して語っている行があるという。つまり、「撮影時期が慶応元年」と落合さんが信じていると、斎藤さんが思っているのではと落合さんが心配しておられた。

しかし、同書のp.144でも、「撮影時期が慶応元年」と信じているのは、松重正氏であると斎藤さんは明確に述べており、落合説は「撮影時期は明治2年2~3月」と、斎藤さんは正しく理解されているので、落合さんの心配は無用のようだ。

二点目、落合さんが以下のように書いているので、読者も注意願いたい。

私は「フルベッキ写真の問題の一つはこの青年の正体が分からないことで、あるいは睦仁である可能性もある」と言っただけで、その可能性が大きいとまでは言っていませんから、お読みになるときに、誤解されぬようお願いします。


亀さんは長年にわたりフルベッキ写真の背景を追い求めてきた。途中、当時は慶応大学で教鞭を執っておられた高橋信一先生と、合流する形で旧ブログに「フルベッキ」 と題するカテゴリを設け、主に高橋先生の論文を発表してきた。その高橋先生も件の青年が誰か分からないという。それは亀さんも同様だ。今のところ、写真に 写る青年は定説通り、佐賀藩の藩校致遠館の学生の一人と亀さんは思っている。ただ、写真に写るは睦仁かもしれぬという落合さんの今回の推測に接し、本当で あれば凄いことになると思った。斎藤さんが以下の写真を比較鑑定の依頼を行うと、同書の中で語っておられたが、どうなることやら今から結果が待ち遠しい。

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『明治天皇“すり替え”説の真相』p.229 

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『明治天皇“すり替え”説の真相』p.273


toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-661.html
亀さんちから転載しました。↑


これも亀さんです↓

★フルベッキ写真の暗号

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斎藤充功さんの『「フルベッキ写真」の暗号』を読了した。
旧ブログ【舎人学校】のカテゴリの一つである「フルベッキ」で、フルベッキ写真について精力的に発表を続けてこられた、高橋信一先生の名前が随所に登場していた。また、過去に亀さんがフルベッキ写真と絡めて叩いた、〝懐かしい〟名前も以下のように登場している。

加治将一
大野芳
鬼塚英昭
地家靖一
松重正
鹿島昇
原田実
中丸薫
山口貴生
落合莞爾


高 橋信一先生と原田実氏は〝明治天皇掏(すり)替説〟否定派であり、一方で筆者の斎藤充功さんも含め、残り全員が〝明治天皇掏替説〟肯定派である。亀さんは 斎藤さんや落合さんと同じく〝明治天皇掏替説〟肯定派だ。それなのに、どうして〝明治天皇掏替説〟肯定派が多勢を占める、上記の人たちを批判したかという と、大方の説に素直に頷けないからである。詳しくは旧ブログのカテゴリ「フルベッキ」で確認して頂きたいが、一例として山口貴生を取り上げておこう。同氏 に関しては高橋先生が叩いている。
反証・山口貴生著「日本の夜明け」

な お、『「フルベッキ写真」の暗号』で亀さんが白眉と思ったのは、第8章「『明治維新の生贄』の虚構性」であり、斎藤さんは渡辺魁という破天荒な人物の正体 を見事に浮き彫りにしていた。亀さんも同章を読み、鹿島昇氏や鹿島の〝弟子〟を称する松重正氏が偽物であることを、改めて確信した次第である。

最 後に、松重正氏がフルベッキ写真に写る一人の若侍は明治天皇であると主張しているのだが、これが真っ赤な嘘であることが斎藤充功さんの今回の新著で暴かれ ている。ただ、明治天皇であるとされていた若侍が何者であるかは、今回も突き止めることができなかったようだ。ただ、上述の高橋先生が、「群像写真はフル ベッキと佐賀鍋島藩が長崎に作った学問所(致遠館)で学ぶ学生たちの記念写真にすぎない」(p.150)と主張されているように、フルベッキ写真に写る若 侍は、無名の学生の一人であると思ってほぼ間違いのではと思う。

ところで、落合莞爾さんが〝堀川政略〟との関連で、フルベッキ写真は東山道鎮撫総督府に深く関与した人物が幾人か写っていると主張している。亀さんもこのあたりの真偽について関心があり、落合莞爾さんと斎藤充功さんとで徹底的に議論してもらえたらと願っている。
謎深まるフルベッキ写真
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[2014/05/31 05:51] | 斉藤充功

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亀さんちから転載しました。↑↓


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謎深まるフルベッキ写真
亀さんは旧ブログ「舎人学校」で、慶応大学の高橋信一先生と一緒に、長年にわたりフルベッキ写真の真実を追い求めてきた。

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そ の高橋先生が今年の6月に都内で,久しぶりに講演会を開くというので顔を出したところ、斎藤充功さんも出席されており、その場で名刺を交換することができ た。爾来、時折お会いし、いろいろと貴重なお話を伺っている。その斎藤さんから、数日前に近状報告を兼ねた私信をいただいた。その中に、「来年3月刊行予 定の西郷写真の追加取材で飛び回っている」という報告があった。「西郷写真」については、拙記事「謎の写真」で も触れたので確認いただくとして、要はフルベッキ写真に写る西郷隆盛とされる人物は、西郷ではないというのが高橋信一先生、そして亀さんの従来の主張だ。 しかし、ここへ来てひょっとしたら西郷かも…という、どんでん返しが起こりかねない情勢になってきた。そのあたりは、来年の3月に発行されるという、斎藤 さんの新著に目を通した上で判断したいと思う。

ここで、斎藤さんに是非お願いしたいことがある。それは、本部ログでも「落合秘史」として登場していただいている、落合莞爾さんに直に会い、落合秘史なるものの真髄を斎藤さんなりに引き出した上で、斎藤さんの著作『フルベッキ群像写真と明治天皇〝すり替え〟説のトリック』との摺り合わせを、行ってみて欲しいということである。
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そ の意味で、落合秘史シリーズのなかでも、『明治維新の極秘計画』および『国際ウラ天皇と数理計シャーマン』の二冊で言及している、フルベッキおよびフル ベッキ写真を、斎藤さんなりの調理法で料理した本や記事を発表してもらえたら、これは面白いことになるのではないか…。なぜなら、フルベッキ写真でフル ベッキ親子を囲む侍たちは、佐賀藩の藩校致遠館の学生だというのが通説になっているのだが、落合秘史シリーズ本を読み進めていくうちに、東山道鎮撫総督府という言葉が浮かび上がってくるからだ。確かによく見ると、フルベッキ写真には東山道鎮撫総督府に深く関与した人物、岩倉兄弟・宇田淵・原保太郎・折田彦市が写っている…。
フルベッキ写真と小栗忠順
落合秘史 3







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フルベッキ写真と小栗忠順
昨日、フルベッキ写真研究家の高橋信一先生の講演会に久しぶりに行ってきた。その模様を旧ブログに『古写真研究こぼれ話』と題して書いたので、目を通してもらえたら幸いである。

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熱の籠もった高橋先生の話に耳を傾けながら、亀さんの脳裏に浮かんだのが、『明治維新の極秘計画』の小節(p.288)、「フルベッキ写真と小栗忠順」だった(以下に転載)。

俄には納得しがたい小節だと思う。ただ、落合秘史シリーズや栗本慎一郎シリーズ本を読み、改めてフルベッキ写真を眺めれば、官軍の東山道鎮撫総督であった岩倉具定を筆頭に、同軍の面々が勢揃いしている理由が朧気ながら掴めるのではないだろうか。


フルベッキ写真と小栗忠順
明 治元(一八六八)年の末に上野彦馬が長崎で撮影した所謂「フルベッキ写真」には、岩倉の二人の子息のほか原保太郎・宇田淵・折田彦市ら小栗事件の関係者が 写っています。この写真は、在英ワンワールド薩摩支部から、フルベッキが日本に送り込まれた開国指導役であることを知らされた岩倉具視が、二人の子息を長 崎のフルベッキの元に送った時の記念写真のようです。
大隈重信から佐賀藩の英語学校致遠館に招かれて英語を教えたフルベッキは、日本の進むべき方 針を示した草案『ブリーフ・スケッチ』を同志の大隈重信に贈り、海外視察団を組織するための参考に供しました。岩倉具視がこれを流用して、明治四年の岩倉 遣欧使節団の基本としたとされています。遣欧使節の真の目的は、岩倉を初めとする維新政府の指導者たちが、各国のワンワールド首脳に面通しをすることに あったと観るべきでしょう。
維新後の先帝孝明天皇父子は「堀川御所」に籠り、國體天皇としてシャーマニズムに精励されましたが、尹宮(時に賀陽 宮)朝彦親王は、長州藩・倒幕派公家・政敵岩倉具視らと対立してきた関係から、維新直後に慶喜の幕府復興を画策した謀反容疑で、皇族身分を剝奪されて庶民 に落とされ、安芸藩に永く幽閉されました。広島ではなく、安芸藩の江戸屋敷だと聞きます。大坂城で病死を演じた前々将軍家茂は、おそらく京都の寺院に潜ん で和宮と睦まじく暮らしたものと思われます。
維新後に岩倉邸を出て、神戸の洋学塾「水本塾」で英語を学んでいた折田は、七月二日に東山道鎮撫軍の任を解かれた具定・具経兄弟を具視から託されて、九月に長崎に逝き、佐賀藩の英語学校致遠館に入り、岩倉兄弟と共に校長フルベッキから英語を学びます。
岩倉兄弟の致遠館への入学は、具視が鍋島閑叟を通じて依頼したものですが、具視の真意はフルベッキに兄弟の留学斡旋を依頼したのです。
こ のことは、具視が子息二人をワンワールドの人質として差し出したことを意味し、例のフルベッキ写真はその証拠写真と見て良いと思います。時期は明治元年の 晩秋と考えられますが、岩倉兄弟・宇田淵・原保太郎・折田彦市と、東山道鎮撫総督府の面々が勢揃いしているのはなかなか壮観で、関係者で姿が見えないのは 小栗忠順だけです。呵呵。

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明治元年、写真師上野彦馬撮影とされる「フルベッキ写真」



以上、亀さんでした。






きのこさんです↓

★フルベッキ写真は合成!?
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古布マニアなら
気がつくはずw

あー
でも、アホきのこちゃんの
勘違いかもしれないしー

調べ上げて「本物」って言ってる
プロの人たちに悪いしー

これ以上ただでヒントはやらないw

クククッ
kinokokumi.blog13.fc2.com/blog-entry-3580.html
きのこさんちから転載しました。↑





・玉蔵さんです↓

★フルベッキ博士の集合写真について

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さて前の記事で引用した中丸薫さんの記事。
ちょっと質問があったので書いときます。

イエズス会のフルベッキの周りに集まった、明治維新の志士たちと一緒に写っている写真を見たことがあるでしょうか。それが後の明治天皇になる大室寅之祐だったということです。



この写真。
後の明治天皇の大室寅之助さん以外にも、西郷隆盛さんとか、坂本竜馬さん、桂小五郎さん、勝海舟とか。
幕末の志士の集合写真。幕末オールスター写真と言われているものです。
載せときますね。

フルベッキ群像写真(ふるべっきぐんぞうしゃしん)。
オランダ出身でアメリカ・オランダ改革派教会から派遣された宣教師グイド・フルベッキとその子を囲んだ44名の武士による集合写真。
「フルベッキ写真」「フルベッキと塾生たち」とも呼ばれる。



クリックすると大きくなります。
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見ると錚々たるメンバーが映っています。

ちなみに明治天皇と言われている方がこのお方のようです。
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確かに似てなくもないですね。

ちなみにカラー版もあるんですね。
クリックすると大きくなります。
47041942a81e52eb34c2bfb6ba7794cf.jpg

フルベッキさんと言うのは、明治時代の神学者で、イエズス会の宣教師さんです。
この写真は一方で、単に佐賀藩の藩校(致遠館)の学生の集合写真とも言われています。
錚々たる幕末の志士の写真か、はたまた単なる学生さん集合写真なのか。
見解が分かれるところです。

明治から400年程さかのぼること戦国時代。
西日本には多くのキリシタン大名がいた。
その中で、当時、一番最初にキリスト教の布教を許した大名。
大内義隆(おおうちよしたか)さんという大名がいますた。

ouchi_02.jpg

一番勢力があった時はほぼ西日本を支配していた大名。
seiryokuzu_31.gif

こんな大きな勢力を誇った大内義隆ですが、その後、毛利家に滅ぼされてしまいます。
でも、その大内義隆の血筋が山口県田布施町に生き残ったと言われています。

その大内氏の子孫が明治維新のころになって、復活し
伊藤博文さんとか大村寅之助(後の明治天皇)になったと言われているのです。

とにかく明治維新というのは、薩摩の西郷隆盛さんや、大内出身者。
みんなで仲良く南朝革命!
そしてなぜかその南朝はイエズス会ともつながりがある。
そういう話だったようです。


関連記事
[ 2014/03/20 12:53:18 ] 奴らの歴史
golden-tamatama.com/blog-entry-1403.html
玉蔵さんちから転載しました。




【明治維新の闇】田布施一味の策略で大室寅之祐(朝鮮人王族末裔)を明治天皇にすり替え。 朝鮮系田布施一味が政府を掌握し、日本を戦争に導いた。  『明治天皇以降は南朝 明治維新と田布施朝鮮人部落』(真実探究)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=261332 より

現在の天皇は南朝系、明治維新のときに入れ替わった。

明治維新によってできた明治新政府は、明治簒奪政府である。

そんな話を、先日話を聞きに行った講演会で聞いた。

明 治天皇は、江戸時代最後の天皇である孝明天皇の子ではない。孝明天皇は、邪魔になったために長州藩によって毒殺され、長州の田布施(たぶせ)、現在の山口 県熊毛郡出身の大室寅之祐が明治天皇になったというのは以前から言われていて、私もこの話は知っていた。事実かどうか確信は持てなかったが、話を聞いて、 大筋で事実であることが確認できた。

ただ事実と違うのは、孝明天皇は毒殺ではなく、伊藤博文に刀で殺されたということ。

孝明天皇は、40歳くらいのとき、疱瘡にかかった。その年齢で疱瘡にかかるとかなりたいへんな病状になる。が、病状は快方に向かった。

病 気が良くなると、孝明天皇は京都郊外にある女の家に出かけた。それを見越してあらかじめ暗殺に都合が良いよう、女の家の場所・作りを整えていた。孝明天皇 が厠(かわや)に立ったとき、そこで待ち伏せしていた伊藤博文が床下から天皇の尻に刀を刺し殺害。遺体はきれいに洗われ、孝明天皇は疱瘡で死んだことにさ れた。

孝明天皇には、睦仁親王(むつひとしんのう)という息子がいた。彼もまた殺害された。そして、長州によって大室寅之祐が睦仁親王と置き換えられ、明治天皇となった。

孝明天皇は毒殺されたという話が「裏の歴史」のようなものを読む人たちの間でされている。しかし、それはそういう話が意図的に流されたためで、実際には伊藤博文に刀で刺され、殺されているという。

大室寅之祐が明治天皇に据えられたのは、彼が後醍醐天皇の末裔で、南朝を継ぐ者だったから。孝明天皇までは、天皇は北朝の血筋であったのだが、明治天皇が大室寅之祐に置き換えられたことで、天皇家は南朝の血筋に移ることになった。

明治天皇が偽者で替え玉であることは、状況証拠からも判断できる。孝明天皇の息子の睦仁親王は、体が虚弱で精神的にも弱かった。しかし、明治天皇は体格が立派で馬に乗るのが大好きだったという。睦仁親王とは、特徴が全く一致しない。

南北朝の争いで南朝が負けた際、光良親皇という南朝の王権を持つ者を長州がかくまい、その血筋は代々受け継がれた。そしてその末裔である大室寅之祐が、明治天皇に即位することになる。

徳川家康は、正統である南朝を復活させることを狙っていた。しかし、寿命がつきこれを断念。南朝の復活は、ひそかに水戸藩に託された。徳川御三家の中でも水戸は特殊は使命を帯びた家だった。

幕末、徳川最後の将軍・徳川慶喜は、水戸藩の出身。彼は明治維新の黒幕といえる存在である。

下はフルベッキ写真と呼ばれる写真で、勝海舟・陸央宗光・西郷隆盛・坂本龍馬そして大室寅之祐(明治天皇)などなど、幕末から明治維新にかけて活躍した者たちが勢ぞろいして写っている。真偽が疑われているが本物であり、徳川慶喜の命によって彼らが長崎に集められた際、撮られた写真であるという。

フルベッキ写真~明治天皇、西郷隆盛、勝海舟 他の集合写真
フルベッキ写真1
フルベッキ写真2


徳川慶喜は、江戸幕府を解体して終わらせ、大室寅之祐を明治天皇に担いだあと、自分は新しい幕府の将軍になろうとした。が。結局これは失敗に終わる。

天皇が入れ替えられたことについて、長州の国家老一族の益田勝実の言葉が残っている。鬼塚英昭氏の著書「日本のいちばん醜い日」に掲載されている一文を紹介する。

天 皇様をお作り申したのはわれわれだとは、明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされことだったが、近代天皇制以前には、京都に天皇家はあったが、天 皇の国家はなかった。尊皇派が考えていた天皇の国家の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたもので はなかった。かれらが求めている天皇と現実の天皇と、いくらか融和出来るうちはよいとして、その矛盾が激化すると、……激化すると、天皇を取り換えてしま うほかなくなる。

わが家に空襲で焼けるまであった孝明天皇使用の皿は、おそらくまだ長州と天皇の間がうまくいっていた、蜜月時代にもたらされたものだろう。奇兵隊挙兵の翌年、1866年(慶応2)の暮れには、孝明天皇は謀殺されてしまった。もちろん、仕組んだのは江戸幕府ではない。志士側で、天皇が倒幕の障害になりはじめたからである。今日では、このことはもう公々然の秘密となっている。

孝明天皇は、暗殺された。

明治天皇は大室寅之祐に置き換えられた。

以後天皇家は、南朝の血筋になった。

これは事実として確定したといって良いだろう。

同書によると、明治維新以降、日本の政治は、大室寅之祐(明治天皇)の出身地である山口県の田布施出身者で占められることになった。田布施は長州時代の朝鮮人被差別部落である。


伊藤博文、木戸幸一、宮本顕治、河上肇、難波八助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣などだ。岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は、この田布施一味の末裔である。

小 泉元首相の父・純也は、鹿児島の田布施(現在は加世田市金峰町)出身の朝鮮人。鹿児島の田布施も山口県の田布施と同じ、朝鮮人部落だ。小泉純也は上京して 小泉又次郎というヤクザ(刺青大臣と言われた)の婿養子となり「小泉姓」を名乗り、日本国籍を取得した。小泉の次の安倍も、もともとの出は、朝鮮人部落 だった山口県の田布施である。

現在の菅直人首相も田布施の出身であるという話を聞いたことがあるが、公式プロフィールでは山口県宇部市の生まれということになっており、確認は取れていない。

明 治天皇=大室寅之祐になり、天皇家は正統の南朝に移った。が、明治維新の立役者たちは暗殺されるなどして、実権は革命の趣旨を無視して利権を重視する岩倉 具視・伊藤博文・山縣有朋らの手に渡ることになった。山縣は特に重罪で、第2次世界大戦へと導いた張本人だという。このことをもって講演会の講師は、「明 治簒奪政府」という言い方をしていた。

教科書に書かれない、書けない歴史の闇が明治維新にはあった。坂本龍馬の大河ドラマを見て喜んでいる場合ではない。今に至る日本の支配階層の腐敗の根が、明治維新にあったのだ。


george743.blog39.fc2.com/blog-entry-1831.html
原発問題さんちから転載しました。↑



*フルベッキ写真&その背景には興味津々です。
ばらけていた東西一流論客の説をここに収録したので、ゆっくり、じっくりと検証されてください!










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2014年12月05日 | nueqさん | トラックバック(0)件 |
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